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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第83回:城郭談義(その19)「城を哲学するB /履歴から見た城跡論」 2017年2月15日

学芸課長堀田 浩之

 

 平成28年4月に起きた熊本地震では、ニュース映像で目にした熊本城の惨状が、とりわけ印象的でした。大天守では鯱瓦をはじめ、目地漆喰を施した屋根瓦がすっかり落下してしまい、堅固で名を馳せた石垣は城内の各所で崩落。隅部の算木積み一本で、辛うじて櫓をささえているといった、驚くべき光景も映し出されました。

 

 地震国である日本では、災害が避けられない宿命とは言いながらも、名城としての強大さで知られた人為施設の、自然界の前ではあまりに無力であった究極の状況を、あらためて再認識させられました。やはり長い歴史の上では、たとえ恒久を夢見た城であっても、一過性の構造物に過ぎなかったのかもしれません。ここでは、今後も多発すると懸念される自然災害の脅威を前に、過去の様々な修理の履歴を介して、今日に姿をとどめることになった城跡のあり方について、少し考えてみたいと思います。

 

 熊本では、人々の憧憬と矜持の対象である熊本城の復旧が、当地の再生イメージを端的に表現することになりますから、是が非でも城跡の修理は急がれるのですが、破損の及んだ全ての箇所に手を入れるとなれば、それなりの時間の経過を要することが予想されます。そこで、或る識者が提案していたのは、工事の長期化に際して西洋の教会建設の考え方を参考してはどうか、というものでした。

 

 バルセロナ(スペイン)に所在するガウディ設計の有名な教会は、少しずつ形を整えながら現在も建築工事が進行中です。その都市のシンボルとなる西洋の教会建設では、着工から100年以上の年月をかけて、幾世代にも亘って工事が継続していく事例は数多く認められます。おそらく、個々人の感覚と想像力を遙かに超えた巨大建造物の構築にあたっては、長期間に及ぶ着実な支援体制を必然とするプロセスが、明確に意識されていたのでしょう。ここ熊本城にも、今後の修理工事に向けた持続的な関与の工夫が求められてくる、というわけです。さしあたりの応急処置で済ませるのではなく、未来の世代へと託された継続事業に向けての連帯の信頼感が、その前提にはあります。

 

 熊本を代表する観光地であり、平素から市民の憩いの公園ともなる城跡内では、想定される人々の動線計画に基づいて、安全確保のための改修工事が本格化していきます。言わば、城跡内での遺構の整備に、その時点での優先順が決められていくことになるのです。被災部分が余りに膨大であるため、修理方針の計画に応じた後先の順番の提案は、作業上は仕方のないことでしょうが、その際に考えておきたいのは、“どこまで直すのか”という当座に求められた復旧の意味するものについてです。

 

 因みに、城跡内での保全が不要不急と判断される場合においては、敢えて復旧には向かわず、放置したままの状態に留める選択肢も、従来から他城で認められる一般的な事例であったように思われます。また、現実問題として破損状況にもよるのでしょうが、全ての部位に事後の復旧が100%の力で及ぶかといえば、甚だ疑問としなければなりません。城跡は各時代の諸事情を反映した、修理履歴を確かに身にまとっているのでした。

 

 今日の文化財保護の感覚からすれば、崩壊した石垣については、出来るだけ元の通りの石積みが試みられることになりますが、転がり落ちた石材のそれぞれの状態を確認しつつ、復旧作業を行うのは容易ではありません。そもそも照合の基準となるべき被災前の記録が手元にあるかどうかさえも心許ないのです。また地震によるダメージが、基礎となる地盤に深い爪痕を残してしまった場合、城跡の文化財としての価値を維持していくためには、どのような対応策が講じられるべきなのでしょうか。例えば、ひび割れた脆弱な土壌を掻き取って、災害に強い工法で新たな地盤基礎を築き直すことになると、厳密なところでは、既に被災以前の状況からの乖離・変更を意味するものだと言えます。

 

姫路城/内堀石垣の修理痕跡

 

姫路城/昭和に積み直された帯ノ櫓下の石垣

 

 ところで、姫路城の三ノ丸南西部の内堀石垣には、石積みの修理痕跡が残されており、複数の修理履歴を観察することができます。同所が石垣の崩れやすい場所であることを示しているばかりでなく、部分的な改修がその時の工法を以て、継ぎ接ぎのように繰り返されたことを証言しているのでした。当時は文化財の保全という概念などありませんから、当座の補修が施されればそれで良しとされたのでしょう。不揃いな石積み表面の意匠から、見た目は聊か悪いかもしれませんが、逆に石垣修理の履歴を把握することが可能であり、後世の姫路城研究に少なからぬ効用をもたらすこととなったのです。

 

 一方、姫路城内で最も高さのある帯ノ櫓下の石垣については、昭和28年からの積み替え工事が行われた部分に当たります。今日では古くからの遺構であるかのように、随分と落ち着いた雰囲気を出していますが、れっきとした戦後生まれの石垣です。城跡を訪れる人々にとっては、姫路城の昔物語を彷彿とさせる装置である以上の、厳密な遺構の価値は求めていないのかもしれません。城跡であることのイメージの安定感を演出するために、表面的な意匠の整備の方に、必然の関心が寄せられていくのでしょう。

 

 東北の仙台城では本丸石垣の調査によって、現石垣の裏側に先行する古石垣が発見され、地震後の修理工事のプロセスが確認されました。仙台城と言えば、伊達政宗を連想しますが、彼の時代の石垣は表に姿を現すことなく、災害後は現石垣を支える基礎として地中に埋められていたことになります。江戸時代の復旧工事の仕様がそうさせたのでしょうが、破損部分の旧石垣の前面に新たな石垣を築いていく、といった修理の履歴が幸運にも残されていたのです。熊本城でも明治時代の修理記録と対照できるようですが、そのことで、城跡整備の上の新局面を迎えることになるかもしれません。

 

 「復旧にさいして、修理履歴をとどめる石垣をそのまま再現して積み直すのか、或る特定時期の仕様をもとに継ぎ接ぎ状態の解消を図るのかは、これから地元を交えての検討がなされていくのでしょう。ただし、最新工法を用いた平成ならではの修理工事の痕跡もまた、確かな履歴の一つとして、城史に加えてもらいたい気もするのです。ともあれ、長い目で見守り続けたいと思います。