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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第59回:城 郭 談 義(その13)「縄張を評価すること 〜江戸時代人の発想〜」 2015年2月15日

学芸員 堀田 浩之

 

 小学生のころ、家の近くの空地に城郭の縄張図を引いてみたいと試みたことがあります。城郭の進入路が幾重にも折れ曲る形状は知識としてもっていたので、オリジナルの自分の城づくりに取り掛かかろうと、さっそく鍬を手にしました。まず中心区を決め、そこから副次的に派生する防御線としての掘割を引いてみたのですが、どうにも様[さま]≠ノなりません。私の初めての城郭案は計画途上でストップしてしまいました。今は難解でわからないけれど、きっと城郭を巧く創るための約束事があるのだろう。そんなことを何となく実感した記憶があります。城郭の奥義を追求する長い道のりがここに始まりました。

 城郭らしい形を獲得するためにはどうしたらよいのでしょうか? あれから40年以上の月日がたちますが、自分で満足のいく答えを用意できたという確証はありません。そこに城郭研究者の推奨する必然のマニュアルが介在しているのではないか、とも思ったりしています。しかし、全くの空白域からのスタイルの具現化は本当に難しいものです。恣意に任せたフリーな造形解釈の行方は、かえって進むべき道筋を視界から遠ざけてしまう。そもそも現代人と城郭の過去との間には、越えがたい溝が横たわっていたと言えます。

 ところで、「城制問答」という江戸時代の軍学書があります。そこには、城郭に関する師匠と弟子たちの質疑応答の内容が列記されており、当時の専門家たちの城郭認識の一端が読み取れます。「師」役の福島国隆は、貞享3年(1686)に55歳で死去するまで、北条氏長の高弟として活躍。実戦経験から遠ざかった泰平の時代にあっての、新しい軍学の発展に貢献しました。城があっても、勝手に攻めることも、手を加えることも許されない世情では、そこにリアルな戦闘場面との照合など望める筈もなく、不戦を強いられた城郭への軍事研究の可能性は、観念的な評価による機能保証の提案ということになります。

弟子の一人である阿部正武が、自身の居城(武蔵国忍城)について、日頃の懸案事項を「師」に尋ねています。それによれば、沼地に広がる城郭であるため、堤・塀・松といった目隠し用の模範的な蔀[しとみ]≠ェ置けない違和感をいだき、堀に繁茂する蓮の処置にも苦慮している旨の相談が寄せられました。軍事施設としての理想的な城郭とは程遠い現況を随分と気にしていたのでしょう。「師」はそれを受けて、城地の自然環境に合った芦を蔀≠ノするよう勧め、かつ、守城の際には食用となる蓮の利点を指摘します。

当の城主たちにとって、実際に管理を任された手元の城郭は、あくまで現状維持を求められた不変の対象なのであって、その評価については未知数の不安感がいつも脳裏を過っていたに違いありません。城郭を構成する各種要素のスタンダード(標準装備)に関する先行知識と、実際の居城に採用された現場パーツとの整合性の可否を、いったい誰が証明してくれるのか? 城郭の奥義を知らない城主たちの心の拠り所となるべく、軍学者たちが用意した軍事観念のマニュアルは、城郭認識の望ましい方向性を保証する対応の指針となって、時代の要請に密接、かつ柔軟に関与していたのでした。

「姫路城:天守から城内を西下望」

※ 城郭の縄張には攻めと守りの双方の立場からの見方がある

「姫路城:帯ノ櫓下の石垣」

※ 堅固な施設はそれだけで守城側に負担軽減の効果をもたらす

 「城ト云ハ国民ヲ守ノ器也」とは、「師」の語った斬新な城郭観の言葉です。その意図するところは、城郭の存在が人々の普段の生活を抑圧しないように留意する点にありました。「師」は、山城のノリ(傾斜面)を急にすれば崩れやすくなり、修復に手間が要って民力を労することを、むしろ「将ノ不義」と捉えたのです。つまり、不時に備えた城郭の要害度の強化よりも、人々の日常生活の安寧を保全する立場に城郭の使命を位置付けており、平素の維持管理の在り方にも関心を寄せ、領民の負担の軽減化が図れる縄張づくりを志向しています。ここでは同じ軍事性にしても、籠城する人々の生命・財産等を守ろうとする戦国の世の切羽詰った城郭観は、既に感じられません。

 さて、堀の広狭の規範について問われた「師」は、「初ニ賊ノ気ヲ押ル」という堀の機能の原理を提示したあと、10間なら攻め手は埋めようとは思わないが、25間なら段々と埋めていく気にさせるものだと述べています。どうやら城郭の縄張には、それを目にした者の心理を組み込んだ評価の問題が求められることを、ここでは指摘しているようです。孫子の兵法を持ち出すまでもなく、将兵の心理状態は軍事作戦の成否を大きく左右しますが、学問としての軍事マニュアルを提案する日本の軍学において、どの程度重要視されていたのかは不明でした。10間と25間という堀幅の違う軍事設備を比較した場合、積極策(埋める)を誘引する25間の堀より、むしろ放置されたままの10間の堀幅の方が、然るべき意味合いを湛えた(戦闘の対象とされない)巧妙な縄張かもしれないのです。

 なお「城制問答」では、枡形の軍事機能の効用について語る際、殊更に守城側の兵力を節約できるとするシナリオを展開していたことは、江戸時代人の城郭認識をうかがう上で注目すべき観点だと思います。まず、遮断や横矢を駆使した枡形をめぐる攻防戦の場面を想起します。そして、その卓越した存在理由を特化・強調しつつ、曲輪の外周全体を防御対象とする守城の基本スタンスから大きく逸脱しながらも、攻め手を迎える導線を枡形に集中させることで守備側の省力・効率化を図ろうとしました。ここでの城郭の新評価は、城郭を管理運営する立場から計算された、所謂マネージメントの発想と自覚が読み取れ、現代社会に進行中のシビアな感覚に近いものと言えるでしょう。守りの堅い枡形を縄張に採用することで、期待値としての然るべき戦果を想定する以上に、何より城郭の防戦計画に則った守備要員の自在な配置調整が可能となりました。城郭(縄張)の評価の検証には、まだまだ総合的な立場からの再考を試みる余地がありそうです。

追伸 堅固な施設であれば敵が集まっても、さほどの影響は出ないが、それよりも迎撃用の弾薬を使うことの不利を「師」は心配していました。今なら、その気持よくわかります!

「姫路城:ろノ門前から見た塀の狭間」
「姫路城:同所の塀(狭間の省略)」

※ ろノ門の手前から開口部を通して、前方正面の塀に狭間が並んでいるのが見えます。 しかし、門内に入ると塀の途中までしか狭間が用意されていません。何か意図的なものを私は感じるのですが・・・