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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第44回:戦前の少女文化と現在 2013年11月15日

学芸員 今野 加奈子

 

 現在、「かわいい」がありとあらゆる所であふれてしています。みなさん慣れてしまっているので普段は気になりませんが、ふとした瞬間に疑問に思うときがあるようです。

 今年の春に、「かわいい女子ワールド−松本かつじと少女文化の源流−」という展覧会を開催した時に、その氾濫ぶりを不思議と思い「かわいい」がどこから来たか知りたいと見に来られた方もおられたようです。

 この展覧会のテーマは明治末から昭和20年代までの少女雑誌を舞台にして発展したいわゆる「少女文化」で、「かわいい」の源流を探ることを中心に据えたものではなかったのですが、戦前の少女文化が現在の「かわいい」の源流の1つであることは確かです。

 戦前の少女文化の主な内容がどういったものであるかというと、抒情画、少女小説、少女詩などで、とても感傷的なものでした。作り手は少女ではなく、少女雑誌の編集者、抒情画家、小説家、詩人といった主に大人の男性で、少女たちに向けて、少女の感性に合わせたセンチメンタルなものを少女雑誌で発表していました。その動きが最も華やかだったのは昭和10年代前半であり、『少女倶楽部』や『少女の友』で、松本かつぢや中原淳一、吉屋信子や川端康成などが少女向けにさまざまな作品を生みだし、少女向けの感性、少女趣味を育んでいました。戦況が厳しくなった昭和10年代後半は少女文化の空白期で、少女雑誌も戦争一色となりますが、戦後すぐさま復活し、昭和20年代や昭和30年代には、時代に合わせて少女漫画に重心を移していきながらも、少女趣味は少女雑誌から発信され続けており、そして昭和40年代のキティーちゃんやリカちゃんの登場やその後の「かわいい」の隆盛に繋がっていくのです。

 さて、少女たちはこのような少女文化を享受する立場だったわけですが、その少女文化に触れることが出来たのは、実は女学生などの一部の少女たちだけでした。

 1920年(大正9年)に実施された初の国勢調査などから、中流家庭の働き手であったサラリーマンは、当時の全就業人口の約1割ほどであったことが分かります。少女文化を享受できたのは主に、サラリーマンを親に持つ少女たち、つまり都市に居住し、子どもを女学校に通わせることが出来るくらいの経済力がある家庭に育ったごく一握りの少女たちだけでした。暮らしに余裕がなければ楽しむことが出来ないものでした。

 冒頭でも述べましたが、現在はいたる所でかわいいものが溢れ、少女に限らず多くの人がそのかわいさを楽しんでいます。それは戦後に、多くの人たちがそういったものを楽しむことができる暮らしの余裕を手に入れ、いまだ失わずにいるということでしょう。これからもこういった余裕を失わずにいられればと思います。

 

『少女倶楽部』付録 昭和 当館蔵(入江コレクション)
『少女の友』付録 昭和 当館蔵(入江コレクション)