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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第41回:吉田初三郎が描く、戦前の神戸市内の交通路線図 2013年8月15日

学芸員 鈴木 敬二

 

 鳥が高い所から広い範囲を見おろすような地図を鳥瞰図(ちょうかんず)といいます。大正から昭和戦前を中心に活躍した画家の吉田初三郎は、膨大な数の鳥瞰図を描いたことで知られています。今回ご紹介する神戸市の鳥瞰図は、戦前、神戸の市電と市バスの運営のために設けられたのが神戸市電気局が吉田初三郎に依頼して制作され、昭和5年(1930)10月に発行されたものです。昭和5年から営業を開始した市バスは緑、市電が赤の線で路線が示され、本格的に始動した神戸市の公共交通路線と他の交通機関との接続状況を、美しい鳥瞰図の中に明快に示した作品です。

 

写真1 「(外題)神戸市交通名所図絵/(内題)神戸市名所交通図絵」
〔印刷折本、吉田初三郎画、神戸市電気局発行、昭和5年(1930)、当館蔵(入江コレクション)〕

 

 現在の灘区から須磨区に相当する神戸市の範囲が中心に大きく描かれ、その前および左右が海にとりかこまれる構図となっており、まるで神戸市が海にかこまれた島あるいは半島であるかのように見えるほど、神戸市の地形が誇張して表現されています。また地図の隅には下関、門司、釜山あるいは青森、函館、樺太など、現実には一枚の地図におさまらないような遠方の都市が記されることも初三郎式鳥瞰図の特徴と言えます。

 初三郎の鳥瞰図にみられるもうひとつの特徴として、建物ばかりでなく橋やトンネル、ダムなどの土木構造物が大きめに描かれることです。このような構造物はわが国の近代化とともに新しく築かれていったもので、大正から昭和戦前の人々にとっても目新しいランドマークとして見られていた可能性が高いのです。「神戸市名所交通図絵」においても図の中央部を東西に横断するように、昭和6年に竣工する省線(いまのJR線)の連続高架橋という巨大な土木構造物が描かれているのが目をひきます。ここでは初三郎の鳥瞰図に描かれた土木構造物のうち現存するものを二、三ご紹介したいと思います。

 

1.湊川隧道(通称会下山トンネル)

 

写真2 「神戸市名所交通図絵」〔部分拡大 湊川隧道〜新開地付近〕
※黒丸で囲んだ会下山公園の左側に湊川隧道の吐口が見える。

 

 現在の湊川公園から新開地方向に流れていた旧湊川を、現在の新湊川に付け替える際、会下山公園の下あたりに掘られたのが湊川隧道で、わが国最初の近代河川トンネルです。旧湊川は神戸と兵庫の間を隔てるように流れていた天井川でしたので、東西交通の妨げとなっていた上、大雨が降るたびに大量の土砂を流し、さらには周囲に洪水の被害をもたらしていたため、明治34年(1901)に現在のルートに付け替えられました。この事業の一環として完成した湊川隧道は、床面を花崗岩、側壁とアーチを煉瓦によって構築し、最大高さ7.6m、最大幅7.3mの馬蹄形断面は当時としては世界最大規模のものでした。また旧湊川の埋め立ては明治38年(1905)に竣工し、跡地は後に映画館、芝居小屋がならぶ繁華街「新開地」となりました。

 

写真3 保存された旧湊川隧道〔2013年7月20日撮影〕

 

 平成7年(1995)の阪神淡路大震災により新湊川が深刻な被害を受け、その結果、湊川隧道も平成12年(2000)年にその役割を終えることになりました。しかし地域の文化を継承する歴史遺産として湊川隧道は保存・整備され、現在は定期的に一般公開されミニコンサートが開催されるなど、地域の住民による参画と共同の場として活用されています。

 

2.高松跳ね上げ橋と和田旋回橋

 

写真4 「神戸市名所交通図絵」
〔部分拡大 高松跳ね上げ橋1・和田旋回橋2付近〕
写真5 旧高松橋の解説プレート
〔現高松橋西詰 2013年8月11日撮影〕

 

(1)高松跳ね上げ橋〔写真4の1〕

 現在の神戸市営地下鉄海岸線の真上を走る神戸市道高松線は、昭和3年(1928)の高松橋の架橋により開通した。明治32年(1899)竣工の兵庫運河をまたいで架けられた高松橋は、運河の水上交通路を確保するため橋桁を上方に開くことができる、いわゆる「跳ね上げ橋」でした。跳ね上げ橋の類例としては、東京の隅田川に架かる勝鬨橋(かちどきばし/重文)が有名です。昭和15年(1940)に竣工した勝鬨橋は左右両側に開く構造ですが、高松橋は片側に開く「一葉式跳開橋」というタイプの橋でした。昼間は市電も走っていた高松橋は夜間のみ跳ね上げられていましたが、昭和12年以降は閉じたままの状態で固定され、平成6年(1994)には通常の橋に架け替えられました。この絵地図は市電を運行する神戸市電気局が発行したためか、市電の運転に障害とならないよう「跳開橋が閉じた状態」の高松橋が描かれています。

(2)和田旋回橋〔写真4の2〕

 

写真6 兵庫運河に架かる和田旋回橋〔JR山陽線(和田岬線)2013年8月11日撮影〕

 

 吉田初三郎は閉じた状態ながらも高松の可動橋を描きました。そのすぐ近くに別のタイプの可動式橋梁があるのです。それは兵庫運河をJR山陽線(和田岬線)が越える地点に架けられた「和田旋回橋」です。初三郎式鳥瞰図は橋などの構造物を誇張して描く点が特徴と先に記しましたが、明治33年頃に完成したこの旋回橋の構造は鳥瞰図には表現されていません。

 JR和田岬線は、神戸〜下関間の山陽鉄道(いまのJR山陽線)建設用資材を、兵庫の港から各工事現場に輸送するための支線として明治23年頃に敷設されました。明治33年に兵庫運河が開削され、運河と鉄道が交わる箇所に船舶の往来が可能となるよう、この旋回橋が架けられたのでした。橋長15.5mで、本来は中央の円形橋脚(中央支承台)の上に回転する橋桁を支える支承があり、これを支点にして橋桁が旋回する構造になっていました。現在は回転機構が撤去され固定橋となっています。製造者や製造年を示す銘板が橋桁に残っていませんが、桁側面の補剛材の形状などから、明治期に英国の技術をもとに設計・製造されたものと考えられます。

 

写真7 和田旋回橋、レンガで築かれた中央の円形橋脚〔2009年12月01日撮影〕

 

 旋回橋によく似た構造を持つ機関車の転車台があります。明治30年代前半に建設された50フィート級の転車台(全長15.24m)は、人力で回すのが一般的でした。動力(電力)を用いて転車台を回すようになるのは、大型機関車が普及した昭和以降のことですので、和田旋回橋も人の手で回したと考えたいところです。しかし旋回橋の真下には運河があり橋桁を回す人の足場がありません! 足場がなければ人力だけで橋桁を旋回することは非常に困難です!

 ところでこのほかの鉄道用の可動式橋梁としては、三重県四日市市の旧四日市港駅鉄道橋(昭和6年竣工)は一葉式跳開橋であり、また佐賀県の筑後川昇開橋(昭和10年竣工)は橋桁の一部が上下に昇降することにより舟の通行路を確保します。これら二件については技術的に優秀なもの、歴史的価値の高いものとして国の重要文化財に指定されています。明治期に建設された和田旋回橋は文化財に指定されてはいません。しかし明治期に建設され構造上も他に類を見ないものなのですので、兵庫の交通史を彩る近代化遺産としてもう少し脚光を浴びても良いのではないでしょうか。