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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第38回:城郭談義(その9)織豊期のリアルな城郭観 ―官兵衛と隆景― 2013年5月15日

学芸員 堀田 浩之

 現在も、平成の修理工事が続いている姫路城。細心かつ大胆なメンテナンスを施されて甦る平成の天守は、再び飛翔する日を夢見て今も素屋根の中にすっぽり収まっています。そんな“リアル”天守の代役として外壁の描かれた “フィクション”天守の線描画にも、この頃は違和感なく見慣れてきたような気がします。数年間に亘り、現場を堅固に守り続けてきた頼もしさの風格が、新しい姫路の景色にようやく定着してきたのでしょうか。

 さて、そんな姫路城の再スタートを応援するかのように、地元出身の武将「黒田官兵衛」のTVドラマの制作が決まりました。世界文化遺産の登録から20年。ここらで原点に立ち返った城郭研究を再検証しておく良い機会でもあるのでしょう。黒田官兵衛(孝高)は、天正5年(1577)に羽柴秀吉を自身の居所であった姫路城内に招き、毛利氏の勢力と対峙しつつ協力して播磨の経略に邁進します。この後、秀吉は天下人に登りつめ、官兵衛の運も開けるのですが、詳しくは、来年から始まるドラマでの展開を楽しんでいただくとして、ひとまず姫路城内の方に目を向けておきます。

 今年は下山里の背後の古様石垣が改修されることになっており、その進行と成果を私は密かな楽しみとしているのです。周知のとおり、現在の景観に姫路城が整備されたのは、江戸時代に入ってからの池田輝政による本格修築によるものですが、城内をよく観察してみるとそれ以前(織豊期)の遺構も、けっこう残されている状況に気が付きます。輝政は秀吉の城の全否定ではなく、むしろ過去の遺産の発展的な継承を企図していたのではないか?とさえ思わせます。新旧混交の姫路城のスタイルを積極的に評価したいと考える私の立場からすれば、原点の遺構と言える下山里の石垣はとりわけ興味深い対象なのです。

 

平成の修理工事中の姫路城
下山里の古様石垣

 

 まずは「山里」という曲輪名称(大坂城にも所在します)が示すように、秀吉が当地に関与した由来の物語を、そこに想像しておきましょう。そして、上下二つの「山里」曲輪の境界の崖には、例の謎めいた古様石垣と指呼の距離で対面でき、覆っていた樹木の伐採を経て今やその全貌までもが見渡せるのです。二段にズラして築かれた背の低い不整形の石垣(ゴツゴツした趣きの野面積み)は、扇の勾配を描いて聳え立つ後世の高石垣のシルエットとは、だいぶ様相を異にします。また、石垣の折れる部分で用いられる切石仕様の算木積みが未だ完成されておらず、逆に直角ではない鈍角状のシノギ積みを呈するなど、おそらく黒田官兵衛も見たであろう旧城の面影を色濃く留めています。何れにせよ、織豊期の姫路城に登場したこの石垣が、今以上に注目されていたことは疑いありません。

 石垣の出自は土地造成の際の崖部の処理、つまり安定した敷地確保のための土留め機能の強化と、城郭に見栄えの効果を高める斬新な表現アイテムとして、その技法を発達させてきた二つの系譜が想定されます。自然地形に沿った不規則な崖際への石垣ラインの構築は、きっと綺麗な直角のみでは完結しない筈で、シノギ積みの方が余ほど無理のない現実的な対処法と言えます。古い様式の石垣と見れば、時系列での形態変遷の類型化を図り、進化の優劣で判断したくなる城郭研究特有の傾向があるのですが、やはり一つ一つの石垣の存在感を尊重し、同時代の環境下のもとでの真摯な評価を行いたいところです。

 (※ 織豊期の石垣は、当然、織豊期の姫路城を想定した上での考察が求められ、その際は「古様」という判断基準とは次元の異なる別種の価値指標が必要となります。)

 

 黒田家の由来を記した正規の歴史書に、貝原益軒の編著による『黒田家譜』という史料があります。福岡藩が編纂した江戸時代の公式見解ですので、官兵衛や彼をめぐる家中の人々の事績は、この史料内容を前提に調べなければなりません。織豊期の姫路城の具体像については、残念ながら『黒田家譜』での確認は得られないのですが、天正8年(1580)に秀吉が播磨を平定した時点で、別所氏の三木城を再利用するのではなく、姫路を居城に推奨した官兵衛の有名な逸話が書き留められています。その理由としては、播磨国の中央にあって/地形が広く平なる所で/諸国の通路が良く、殊に海辺が近くて運送の便が良いので、「当国の主たる人は」必ず姫路を御居城とするのが宜しい/と、秀吉の新拠点に相応しい城郭の器量について熟知した上で、自身の旧居を惜しむことなく譲ってしまいます。姫路城はこの時、一介の在地有力者の砦構から播磨国主の本拠地へと大転換を遂げ、今日の姫路市の発展を方向づけた歴史的なターニングポイントとなったのでした。

 なお『黒田家譜』には、城郭の選地に関する官兵衛絡みの話題が、もう一つ収められています。毛利輝元が新たに構築した広島城の事例です。それまでの毛利氏の居所は、中国地方の山間部に展開した郡山城という戦国期の山城であって、元就の時には尼子氏の大軍に屈せず、見事に守り切った輝かしい過去の実績がありました。しかし天下人秀吉の覇権が確立して、傘下の毛利氏は織豊期の事情を反映した新時代の居城づくりを始めます。

 

広島城/天守と本丸
広島城/内堀と本丸石垣

 

 広島城は太田川の河口の中洲に立地する平城で、大きな河川を介して国内外の流通を押さえる絶好の要衝に在りました。ただし当所は、島普請と称される程の水辺の低湿地であるため、城郭の軍事力に影響する要害の評価には輝元も不安を抱いていたらしく、一門の重鎮である小早川隆景にその可否を尋ねています。そして、“只今の城地に問題はない”というのが隆景の出した結論でした。念のため秀吉の側近である黒田官兵衛にも意見を求めたところ、此城の要害については問題がなく/他所へ城地を改めるにしても莫大の苦労となり/只今のままで何の患いがあるのか・・・と、見解の一致をみたといいます。

 官兵衛は広島城の要害性が高まれば、有事の(秀吉が広島城を攻める)際に支障が出てくることを懸念して、そのように述べたとされています。つまり、広島城の軍事施設としてのマイナス要因は事前に織込み済みであったわけです。一方、毛利サイドの隆景の発言は、「要害のあしきが則毛利家長久のはかりことにて候」と、随分と意味深長な含みを残しています。その真意は、「此城要害あしくして籠城成かたきと思召し、太閤の御気遣これなきが、則当家安全の基にて候」とあり、堅固さとは程遠い攻めやすさの環境に身を置くことで、秀吉に要らぬ嫌疑を掛けさせない高度な政治手法をこの城に託したものでした。

 では、万が一にも不意の戦闘状態となった場合、どのような対応策が考慮されていたかというと、籠城に及ぶ際は「分国の内いづくなりとも要害よき所多く候間、広島の城あしく候とても、事かけ申事無之候(領国内はどこでも要害よき所が多いので/広島の城の要害性が劣っていて/心配することは無い)」と、時勢に適ったリアルな戦略構想を披露し、不安がる一同を明快な論理で納得させます。すなわち、城郭(居城)の絶対的な軍事機能の評価を、隆景は臨機応変の現場運用によって自在に相対視できていたわけで、実戦感覚に長けたハイセンスの采配が見事です。おそらく、黒田官兵衛も同種の城郭観を共有していたと思われ、互いを畏友とするほど才能を認め合った二人には、織豊期のリアル城郭に求められる軍事の真意が何処にあるのか、早々に御見通しであったような気がします。

 (※“強い”ばかりが“善”とは限らない。わたしに城郭観の逆転を招来した『黒田家譜』の衝撃的な記事との出会いから、今年で20年が経過します。)