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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第33回:美術逍遙 番外編 2012年12月15日

学芸員 五十嵐 公一

 

 日本経済新聞の月曜夕刊で、「美術逍遙」というコラムを担当させてもらってから2年程になる。700字程の原稿を2週続けて書いて3週休む。この絶妙なローテーションに従い、近畿圏内の美術館・博物館で開催されている展覧会でネタを拾い、楽しみながら書かせてもらっている。

 ただ、この「美術逍遙」では所属機関の宣伝をしないという約束があるので当館所蔵作品を紹介することはできない。そこで、この「学芸員コラム」をつかい、「美術逍遙」を書くようなつもりで当館所蔵作品について書こうと思う。

 

 

酒井宗雅 兎図 安永8年(1779)
兵庫県立歴史博物館蔵

 

 「宗雅」というのは、姫路藩2代藩主・酒井忠以の雅号。その宗雅の祖父は、上野・前橋藩主から播磨・姫路藩主となった酒井忠恭。忠恭の子・酒井忠仰が35歳で他界したため、安永元年(1772)に忠恭の孫・宗雅が姫路藩主となった。その時、宗雅は18歳。ちなみに、この宗雅の弟が酒井忠因、つまり酒井抱一である。

 これは、その宗雅が兎を描いた絵。先ず目にとまるのは、画面上方真ん中に大きなドーンと捺された「忠以之印」(白文方印)である。絵師が誰かの注文で描いた絵では、こんなに威張って印が捺されることはありえない。流石に「お殿様」という捺印だ。その印の横に「安永八年己亥晩夏」の墨書があり、ここからこれが安永8年(1779)つまり宗雅が24歳の6月に描いたものだと分かる。

 ここまで読まれた方は、「ふーん、若殿様のお遊びか」と思われるかもしれない。しかし、侮ってはいけない。よく絵を見ると、兎の描き方は実に丁寧だ。そして、当時流行していた沈南蘋の画法を学んでいることに気づく。

 沈南蘋は、享保16年(1731)12月から約1年9ヶ月だけ長崎に滞在した中国人画家。その絵には当時の日本の絵画にはなかった本物らしさがあったため、大いに注目されることになった。実際、当時の多くの絵師たちがそれを吸収し、各地に広めていった。そして面白いのは、そういう動向に複数の大名が敏感だったという点である。伊勢長島藩主・増山雪斎や白河藩主・松平定信、そして宗雅もそんな一人だった。

 宗雅は大名という立場にあったため、流行していた画法の上質な部分を吸収できた。これは究極の殿様芸なのである。