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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第28回:鶴林寺所蔵「紺紙金字法華経」について 2012年7月15日

学芸員 橋村 愛子

 今回の「学芸員ブログ」では、平成22年度に担当いたしました特別企画展「ミニチュアの世界」に際して、展示資料のうち加古川市指定文化財「紺紙金字法華経(こんしきんじほけきょう) 巻第四、五、七、八」(鶴林寺所蔵)の調査機会にあずかりましたことから、その成果をお伝えしようとおもいます。

 この作品は、現状では同じ桐箱に収められています。巻物形式(巻子装)の古い写経です。天然染料である藍(あい)により紺色に染められた料紙のうえに、金を細かくくだいて膠(うるし)で練った「金泥(きんでい)」という金色のインクで、写経されています。巻頭に付された表紙絵と見返絵は、「金泥」と「銀泥(ぎんでい)」という金色または銀色のインクで描かれています。軸の部分は木でできており、両端には金銅に金メッキを施した、撥(ばち)型の金具がつけられています。この金具は、巻第四(天地)、巻第八(天地)、巻第五(天または地)のみに残っており、他は欠失しています。

 法量(ほうりょう)は巻第四のものが、縦25.4pで、表紙(見返し)の幅が20.8p、本紙(ほんし:写経されている部分のこと)の全長が894.5pとなっています。巻頭一行あけて一行一七字あてに写経し、界線は銀泥でひかれています。

 四巻のうち巻第七のほかは、いずれも表紙および見返しを残しています。表紙絵はいずれも宝相華唐草(ほうそうげからくさ)で、見返絵はいずれも正面向きの釈迦説法会(しゃかせっぽうえ)を画面中心に、上辺・下辺に各巻の内容に応じた説話場面を配置するものです。ただし巻第五は欠損が著しく、釈迦説法会はかろうじて判りますが、その他の説話図様については確認できません。

 

 では、見返絵の詳しい内容をみてみましょう。

 

巻第四見返し 鶴林寺蔵

 

 巻第四の画面右下では、大地のなかから多宝塔(たほうとう)が出現し、たくさんの菩薩(ぼさつ)がやはり地中より涌きでて、塔を礼拝(らいはい)しています。左上にはその多宝塔が虚空に浮かび、開いた扉のなかに二体の如来(にょらい)がならんですわっています。これは『法華経』の第十一章にあたる「見宝塔品(けんほうとうぼん)」から、「多宝塔の涌出(ゆじゅつ)」と「二仏並座(にぶつびょうざ)」という連続する二つの主題を描いたものです。霊鷲山(りょうじゅせん)において釈迦が大乗の教えを説いたことに対して、過去世の仏である多宝如来が、自らのまします多宝塔を娑婆世界(しゃばせかい)に出現させ、ほめたたえました。釈迦如来はその塔のなかに入り、多宝如来とならんですわりました。この場面は『法華経』のなかでも大変重要視されていました。

 また、小さな場面ですが、右端の下から四分の一ほどのところに在俗(ざいぞく)の男性が地面を掘っている場面が描かれ、真実の教えへの道のりは「高原で水を求めて地面をほる」ことにたとえられています。画面左下には、お酒を飲んで眠っている人物の袖(そで)のなかに、友人が玉を隠している場面が描かれ、「玉」のように価値がある真実の教えは、「ころもの裏にかくされた」状態であることにたとえられています。これら二つの説話場面は、『法華経』の第十章にあたる「法師品(ほっしぼん)」のうち、「衣裏宝珠喩(えりほうじゅゆ)」、「高原鑿水(こうげんさくすい)」の二つの主題を表現するものです。

 

 巻第八の見返絵は、画面右下が大きく欠損しています。紙が残されている左上には、二人の王子が虚空に浮かび、身体から火と水を放つ奇跡を起こし、父王を改心させる場面を描いています。これは、『法華経』第二七章にあたる「厳王品(ごんのうぼん)」に説かれる「二王子神変(におうじじんぺん)」という主題です。またその右側に、難破船(なんぱせん)や崖(がけ)から突きおとされる人、左下には猛獣に遭遇した人を描いています。これら三つの場面は、『法華経』の第二五章「普門品(ふもんぼん)」の「観音菩薩(かんのんぼさつ)の諸難救済(しょなんきゅうさい)」という、観音菩薩を念じればさまざまな困難から脱出することができるという主題を表現しています。それぞれ「羅刹(らせつ)難」「推堕(すいだ)難」「獸(じゅう)難」を表しています。

 

巻第八見返し 鶴林寺蔵

 

 二つの見返絵はよく似ているようですが、つぶさに観察すると仏・菩薩の顔や光背(こうはい)、画面周辺の縁取りなど、描き方が明らかに異なっています。

 たとえば、巻第八では釈迦の背後の光は火炎状となっていますが、巻第四では通常の円い光です。あるいは巻第四にはない虚空を舞う花びらの表現が、巻第八にはあります。巻第八では、空中にたくさんのちいさな花びらが舞い散っており、三枚が集まって花の状態(三弁花)となっています。

 中世仏画ではこうした虚空に舞う花びらを写実的なものとする場合が多く、たとえば当館所蔵「仏涅槃図」では花びらが弓型にそりたったかたちをしています。長寛二年(1164)頃に制作された「平家納経」(厳島神社所蔵)でも、すでに弓形の花びらがあらわされています。一方、巻第八のものはアーモンド型をしており、一一六四年よりも遡る可能性を示唆します(早くからこうした花びらのかたちが編年の指標となることは、江上綏氏によって指摘されています)。

 また「紺紙金字法華経」見返絵の画面構成については、すでに須藤弘敏氏や緒方知美氏らによる優れた研究があり、ここではそうした先学の導きにたよりながら、鶴林寺の作品についても分析を試みてみたいと思います。

 

 平安時代後期に隆盛した「紺紙金字法華経」は、上段・中段・下段の三段構成をとるものが多く、上段には霊鷲山山麓や連山、中段には釈迦説法会、下段には2つ程度の説話場面(説相図とも)を描くことで、遠景・中景・近景を示してもいます。このうち中段の釈迦説法会を正面向きで表したものは「定型」とされ、鶴林寺の作品もこの画面構成にのっとったものであることが判ります。

 しかし巻第四では、上段の遠景においても小さく説話場面が配されており、あわせて四つもの説話が表現されていました。巻第八は、上段の遠山は追いやられて説話場面のみが広がり、残された画面には合計で四つの説話場面が表現されています。つまり、まだ説話場面は絞られておらず、説話モティーフ(図像)によって経典の内容を豊かに表現しています。巻第八にもしも右下部分が残されていたならば、もっと多くの説話場面が表されていたと推測されることから、より説話場面の数の多い巻第八は、巻第四よりも古い時代のものである可能性が高いわけです。

 四巻の本紙に用いられた料紙も、紙質が少しずつ異なっています。

 とくに巻第四では、第一紙から第一四紙までが平滑で光を透過しない厚めの紙で、第一五・一六紙は光を透過する薄めの紙となっており、同じ一巻のものでも紙質が違います。紙を漉く時に簀子(すのこ)のでこぼこができる簀目(すのめ)の状態については、巻第四第一六紙の簀目(一〇本/二p)、巻第五第五紙の簀目(九〜一〇本/二p)、巻第七第二紙の簀目(一一本/二p)となっています。

 ところで本作品のうち巻第四・五の本紙には、紺色に染められて分かりにくくなっていますが、墨の文字が書かれています。巻第四の第二紙天界(七行目)に「廿五」、巻第五の第一一紙天界(三二行目)に「五」という墨書があります。いずれも紙背に記さているため、表から見ると左右が逆転しています。料紙を藍で染める前に書かれているため、紙を調進する際に、それぞれの紙のまとまり毎にその数を記したものではないかと、推測されます。ただ、今のところ、この墨の文字を記した意図ははっきりと分かりません。

 

巻四第二紙天界「廿五」

 

 

第五第一一紙天界「五」

 

 ですが、これまで幾つかの「紺紙金字法華経」を調査してきた経験では、一二世紀後半や一三世紀の鎌倉時代に制作されたものでは、紙質が厚くしっかりとしたものになり、墨の文字は確認されない傾向にあります(※鳥居和之氏の研究で紹介されているように、一部例外はあります)。

 巻第七・八からは墨書は検出されませんでしたが、巻第四が一二世紀前半の制作と推定してよいならば、巻第八はそれを若干遡る頃と推察されます。

 ある研究では、鶴林寺のこの作品は「12〜13世紀」の制作とみなされ、賀茂別雷神社所蔵の「紺紙金字法華経」とともに建久六年(1195)銘のある東大寺所蔵「紺紙金字華厳経」と、関連づけられています。しかしこれまで確認してきたとおり、また図録『ミニチュアの世界』にて紹介したとおり、この作品は平安時代後期の特徴の認められるもので、13世紀には下らないと考えられますが、いかがでしょうか。

 

 かずかずの貴重な文化財を守り伝えてきた鶴林寺では、この秋、新・宝物館がオープンされます(http://www.kakurinji.or.jp/)。今回ご紹介いたしました「紺紙金字法華経」など、ちいさな画面から飛び出しそうなほどいきいきと描かれた、みほとけの世界を、実際に目で確かめられる好機となるかもしれません。

 

【主要参考文献】

須藤弘敏「平安時代の定型経巻見返絵について」『仏教芸術』136、1981年5月

須藤弘敏「轉寫と傳承−延暦寺銀字本・仁和寺本系紺紙法華經について」『國華』1319、2005年9月

鳥居和之「口繪解説 紺紙に隱れた文書−權律師宥範書状 宗教法人 圓増寺(名古屋市博物館委託)」『古文書研究』70、2010年11月

緒方知美「平安時代経絵の空間表現 : 愛媛大山祇神社所蔵の紺紙金字法華経並開結見返絵」『筑紫女学園大学短期大学部紀要』7、2012年3月