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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第27回:原点としての唱歌 2012年6月15日

学芸員 今野加奈子

 当館の所蔵資料の中に、大正末期頃に作られたと考えられる「宝塚少女歌劇双六」があります。ふりだしのコマは1910(明治43年)の「宝塚線開通」で、次のコマは翌年の宝塚「新温泉開場」です。次には1913(大正2年)の宝塚歌劇「第一期生入学」、その翌年の第1回公演「ドンブラコ」と続きます。それ以降は大正年間に公演された宝塚歌劇の代表作が並び、35番目のコマである、1924(大正13年)の「大劇場落成式」で上がりです。

 さらに詳しく見ていくと、「お夏笠物狂」、「丹波与作」、「吉例三番叟」など、日本をテーマにした作品が、外国をテーマにしたものより目立ちます。今の我々にとっては、戦前の宝塚歌劇は「モン・パリ」といったレビューなど、西洋を題材にした作品が主流だったと思いがちでしょうから、この双六に代表作としてあげられている作品は以外に思えます。

 実は、レビューが主流となったのは昭和に入ってからで、それ以前の大正の頃の宝塚歌劇の作品は、西洋から直輸入したものではなく、日本舞踊や歌舞伎などを下敷きにしたものに西洋音楽の伴奏を添えた和洋折衷の歌劇で、「宝塚情緒」と評されたものでした。このことは、宝塚歌劇が「宝塚唱歌隊」として出発したことを考えれば不思議ではありません。

 唱歌は1872(明治5年)に小学校の科目の1つとして定められ、1879(明治12年)にアメリカで教育学を学んできた伊沢修二が音楽取調掛(東京音楽学校の前身)の主幹になり、具体的に取り組まれるようになりました。伊沢が示した唱歌の方針は和洋折衷で、この方針のもとに1882−84(明治15−17年)に作られた唱歌は、ヨーロッパの歌曲を一部編曲して、日本語の歌詞をつけたものでした。その特徴としては、ヨナ抜き(ファとシ抜き)音階であり、多くが4分の4拍子で、その歌詞は七五調であるという3点があげられます。

 日本の在来の歌謡は、ヨナ抜きの五音階で構成され、また、歌舞伎のせりふなどに代表される七五調は、4拍子またはゆっくりした2拍子という2拍子系のリズムをもっていました。つまり唱歌は、三味線音楽になじんだ日本人にも親しみやすい音楽であり、西洋文化への身近な入口として、明治の頃に浸透していきました。大正2年にその歴史がはじまった宝塚歌劇は、明治における唱歌の浸透があって生まれてきたものだと言えるでしょう。

 さて、伊沢修二が掲げた方針にはじまる唱歌は、その後の日本人の音楽への感受性を作り上げる原点になったと言えます。演歌歌手やアイドルたちが歌った昭和の歌謡曲を考えれば、昭和の頃に子供時代をすごした人にとっては、唱歌のリズムは親しみやすく、やはり原点だと言えるでしょう。

 しかし、平成になると、ヒップホップやダンス音楽といった今までの音楽と異なるリズムを持つ音楽が海外から入ってきます。こういった音楽を聞いて育った子供たちにとって、原点となる音楽は何になるのか、機会があれば平成生まれの人に聞いてみたいと思います。

 

宝塚少女歌劇双六 大正末
兵庫県立歴史博物館蔵(入江コレクション)