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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第25回:「坂落とし」を歩く(その3) 2012年4月15日

学芸員 前田 徹

 

 先月〔「坂落とし」を歩く(その2)〕の続きで、今回は須磨編のまとめです。

 前回まで現在のハイキングコースを歩いてみました。しかし、やはりその程度の作業では、まだまだ「坂落とし」がどこかについての答えは見えてきません。

基図:国土地理院発行1/25000地形図「須磨」
(2000年)

 ただ、歩いてみて浮かび上がってきた感想を一点、まとめておこうと思います。それは、この山は歩いてみればさほどの難所もなく歩ける程度の山だということです。山の下から見上げると海からすぐに標高260mほど盛り上がっているせいもあって大変な急斜面に見えますし、実際に険しい断崖絶壁の場所もありますが、中をゆっくり歩くと比較的おだやかな顔が見える山です。もちろんそれはとてもよく整備されたハイキングルートがあるからなのですが、尾根筋などルートを選べばおおむね傾斜もゆるやかで、多少道が悪くてもさほどの難儀はしないだろうと思えます。もちろん地元の方々が坂落としの候補地とされる場所のように、ポイントポイントで危険なところはありますが、それぞれ短距離で、切り抜けられないほどのものではないと感じます。『平家物語』では、佐原義連が「三浦の方の馬場や」(覚一本)と啖呵を切って落としていった、とされています。このことがどこまで事実かはさておくとして、そう言ってもおかしくない程度の山ではあるなと感じるのです。

浜辺から見上げる
一の谷、二の谷間段丘背後の急坂

 須磨の鉢伏山のような平地に近い山は、「サトヤマ」として古くから生活のために利用されてきた山です。現在のわれわれにとってはたまの行楽や日々の健康づくりのために登り降りする程度にしか縁がありませんが、かつては燃料としての薪炭、家畜の飼料や田畑の肥料としての芝草を採るためなど、生活の上で必要不可欠なものでした。ですから、こうしたサトヤマにはとても古くから人が入るための道がついていたはずです。『平家物語』の記述を読むと、文学的修飾によって鹿しか通わないような深山幽谷というイメージがつきまとってしまいますが、実際の須磨の山はおそらく当時から人々が日常の生活のために立ち入っていた山だったはずです。仮にこの山に源氏の軍勢が入ったとしても、基本的にはそうした地元の住人たちが使っていた山道をたどった、と考えるのが自然でしょう。そもそも数十kgある大鎧を着た完全武装の騎馬武者が道なき雑木林をくぐり抜けていく、というのはおよそ非現実的です。背中にリュックを背負った姿でもヤブコギはなかなか難儀をしますから。

雑木林を抜ける道

 こうして見ると、仮に「坂落とし」が須磨であったとしても、それは想像を絶する超人的な仕業、というようなものではなかったとは言えそうです。また、これまでの議論で、断崖絶壁を駆け降りるなど無理だ、とか、いやよく訓練された馬ならばできる、といった式のものもあるようですが、須磨の現地の状況をよく見ると、こうした単純な議論はあまり意味がないと感じます。山側からの攻撃も、ルートさえ選べば、超人的な行為を想定しないでも可能性は考えられる、とは言えるだろうと思います。

坂落とし(源平合戦図屏風、当館蔵)

 ただし、現在のハイキングルートは、ここまで述べてきたように基本的な部分は1886(明治19)年に測量された仮製地形図に見える道筋とほぼ一致する、というところまでは確認できますが、それより前の段階がどうだったか、というのは今のところ不明とせざるをえません。この点がわかるような絵図などの史料が残されている可能性があるのは江戸時代まででしょうから、源平のころの道を確実な史料に基づいて復原するというのは、残念ながら現在のところはほとんど不可能と言ってよいです。ですので、ここまでご紹介してきた道筋はあくまで参考にすぎない、ということになります。ただ、住人たちが生活のために使っていた何らかの道はあっただろうとは推定できるということです。

鉢伏山

 以上、3回に分けて須磨ルートについて述べて見ました。次回からはもう一つの候補地、鵯越ルートを歩いてみたいと思います。ただし、都合により私の担当回の中では一回だけこのテーマはお休みにさせていただきます。鵯越編は来年春ごろにアップの予定ですので、しばらくお待ちあわせください。