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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第23回:出石焼(いずしやき)の窯跡(かまあと)採集資料   2012年2月15日

学芸員 鈴木 敬二

 

 但馬の小京都と呼ばれる出石は江戸時代には小出氏、仙石氏の城下町として栄えました。出石の特産品である出石焼は、現在では純白の地肌を持つ磁器として知られていますが、江戸時代後期に生産を開始したころは、白地に青の顔料で絵付された磁器(染付)が主力として生産されました。磁器生産の開始にあたり、九州・肥前国から来た職人の指導を得たという記録が残るように、江戸時代の出石焼は伊万里焼に極めて類似した製品がつくられていたのです。

『日本山海名産図会』 肥前伊萬利陶器本窯
当館蔵

 九州・肥前国での磁器を窯で焼く様子が、寛政11年に刊行された『日本山海名産図会』に描かれています。左側の窯の側面にいくつも扉が設けられており、窯が幾つもの小部屋(房)が連なった構造の登り窯(連房式登り窯)を使用していることがわかります。肥前国の技術を取り入れた出石焼の窯も同様のものであったと考えられます。

 焼成にあたり、連房式登り窯に製品(未成品)をつめていく場合、少しでも多くのやきものを効率よく窯詰めすることができるよう、工夫が行われました。

 出石焼の窯の一つである大谷窯は、享和元年(1801)に築かれた頃は出石藩が窯の経営を行っていましたが、文政年間(1818〜1829)以降に茜屋・泉屋の二者に貸し出され、さらに嘉永年間(1848〜1854)にはこの二者に払い下げされ、民間による窯の経営が本格化していきます。このことから出石焼生産の現場では、効率よく磁器を焼くことを常に念頭においていたであることが想像できるのです。

出石焼土瓶(椋谷窯)
当館蔵(山口コレクション)

 この土瓶は窯での焼成中に焼け歪んだため、物原に廃棄されていたものです。このように上手く割れたため、底に窯道具を置いた上に皿を置き、さらに同じ窯道具を置いた上に茶碗を重ねるというように、空いた空間を効率よく使った窯詰めの姿を観察することができるのです。これらはすべて溶着し、あたかも一つの器物のようになっていますが、磁器生産の現場において、効率と品質を両立したやきもの作りを目指す陶工たちの努力の一場面が窺われるようです。