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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第21回:江戸時代の旅人と病気   2011年12月15日

歴史博物館活性化推進員 山形 隆司

 

 JR姫路駅から姫路城大手門まで南北にのびる大手前通りと直交する大きな道路が国道2号線です。この道路は、西宮から下関に至る江戸時代の山陽道(西国街道)をほぼ踏襲しています。電車に乗ればJR西宮駅からJR姫路駅まで1時間程で着きますが、歩いた場合はどれほど時間がかかるでしょうか。私などは途中でくたびれ果ててしまうに違いありません。

 江戸時代の人は、ほとんどが徒歩で旅をしました。本ホームページの「ひょうご歴史の道〜江戸時代の旅と名所〜」でも紹介されていますが、江戸時代に出版された旅行総合ガイドブックである『旅行用心集』(文化7年(1810)刊)では「道中にて草臥(くたびれ)を直す秘伝ならび奇方」という項目が設けられ、道中で疲れをとる様々な方法が記されています。しかし、いくら気を付けても旅の途中で動けなくなる人は多かったことでしょう。

旅行用心集
(兵庫県立歴史博物館蔵、以下同じ)

 江戸時代に病気などにより道中で倒れた旅人を保護することを取り決めたのは、悪名高い「生類(しょうるい)憐みの令」でした。この「生類憐みの令」は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の時代に発せられた生類憐みに関する幕府法の総称です。この法令は、犬や猫の過剰な保護政策を打ち出したことが強調されがちですが、「生類」のうちには社会的弱者(捨て子、病人、囚人など)も含まれていました。元禄元年(1688)10月の「生類あハれミの儀」道中奉行令は、病牛馬養育の条のほかに3か条が病気になった旅人の保護を指示するもので、その内容は以下のとおりです。

 (1)病気の旅人を無理に次の宿に送ってしまうことの禁止。

 (2)病気の旅人に薬を与え、病人の出身地を役所へ届けてその指示を受けること。

 (3)病気の旅人が死亡した際の届け出の方法。

 これは幕府法ですが、その後、全国の諸藩でも同様の法令が発せられました。尼崎藩でも、正徳2年(1712)以後、藩主の代替わりごとに出される法令において、旅人保護が規定されていました。ここでは身元不明の者などに宿を貸すことを禁止するとともに、病気の旅人は介抱し医者を呼んで薬を与えるように指示しています。この法令は、寛延4年(1751)、明和4年(1767)、文政13年(1830)にも確認でき、この政策が尼崎藩で江戸時代を通して行われたものであることが分かります(『尼崎市史』第5巻所収)。

 しかし、これらの旅人保護にかかる費用は誰が負担していたのでしょうか。それを解くヒントが、摂津国兎原郡鍛冶屋村(現神戸市)文書(兵庫県立歴史博物館蔵)に残されています。

天明5年(1785)9月25日 乍恐御訴訟
(おそれながらごそしょう) 【部分】

 これは、天明5年(1785)9月25日付で大坂町奉行所に提出された願書です。この文書には、安永2年(1773)までは西国街道筋に家屋のある村がその費用を負担していたが諸費用が年々かさみ、それ以後は街道筋に地続きの村や掃除場がある村も負担するようになったとあります。負担の比率は、街道筋に地続きの村が24.3%、掃除場がある村が10.5%、残りの65.2%を従来からの費用負担者である街道筋に家屋のある村が支出することに決められました。この文書では、病気の旅人1人を送る費用として人足代と飯代をあわせて、打出村(現芦屋市)―住吉村(現神戸市)間は1里半(約6q)余りで銀4匁7分から5匁程かかり、脇浜村(現神戸市)―神戸村(同)間はおよそ1里(約4q)で銀3匁1分程かかっていると記されています。

 江戸時代の旅人にとって道中で病気になることは大きな心配の種であったと思われますが、18世紀後半の街道筋の村々にとっても旅人が自分たちの村で倒れることが財政的に少なからぬ脅威となっていたようです。