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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第6回:浄土寺浄土堂部材の年輪年代調査 2010年9月15日

学芸課長 神戸佳文

 小野市浄谷(きよたに)町にある浄土寺は、鎌倉時代の初めに東大寺の復興を行った重源(ちょうげん)上人(1121〜1206)により、東大寺の荘園であった大部荘の一角に、復興の拠点と阿弥陀信仰の場所として創建され、当初は「播磨別所」と呼ばれていました。

写真1 浄土寺浄土堂

 境内の西側に建つ浄土堂は大仏(だいぶつ)様(よう)建築の代表例であり、堂内中央の円形の須弥壇に立つ快慶作の丈六阿弥陀三尊立像とともに国宝に指定されています。堂の背面の格子窓から差し込む夕日によって阿弥陀三尊や堂内全体が赤く照り映え、阿弥陀の来迎が劇的に表現されることが、テレビで紹介されて注目を浴び、多くの参拝者が訪れています。

 私が初めて浄土寺を訪ねたのは昭和53(1978)年、大学3年の時で重源上人の事跡に興味を持ち、近畿周辺に伝わる重源ゆかりの仏像を拝観していた折りでした。閑散とした境内に建つ浄土堂の外観は、軒反りがなく緩やかなピラミッドのような屋根のためか簡素な感じでしたが、堂内に入ると、広大なドームのような空間の中央に屋根を突き抜けんばかりに立つ巨大な阿弥陀三尊像、三尊の台座を載せる円形の須弥壇の周囲にある4本の太い柱から炎が燃えあがるように積み重なる皿斗と挿肘木、堂の四隅に向かって三段に架けられた大虹梁など、外観からは想像できないダイナミックな構造美と、阿弥陀三尊像の後光に包まれるような空間に圧倒されました。

 3年後、常設展示の「浄土寺浄土堂模型(1/10)」の担当となり、ご住職にあいさつに伺ったのが二度目、その後バスツアー、見学会などで毎年のように訪れていますが、最初に受けた感激がその度によみがえってきます。

写真2 浄土堂部材−肘木
写真3 浄土堂部材−大斗

 館蔵資料の中に浄土堂の部材が約20点あります。これは昭和32年(1957)3月から昭和34年9月にかけて解体修理が行われ、破損等で取り外された部材です。

 平成21年2月に年輪年代学研究の第一人者である総合地球環境学研究所の光谷(みつたに)拓(たく)実(み)教授により、部材の年輪の調査がおこなわれ、データを解析されたところ、2点の部材から伐採年が判明し、さらに生産地も明らかになりました。樹皮下の年輪がある肘(ひじ)木(き)(写真2)は、1195年(建久6年)、大斗(だいと)(写真3)は、1192+3or4年(建久6or7年)に伐採されたことが判明しました。また、産地は周防(すおう)(山口県)であることもわかりました。

 浄土堂は、「浄土寺縁起(えんぎ)」(神戸大学藏)に、建(けん)久(きゅう)5年(1194)11月15日に棟上(むねあげ)、同8年(1197)8月23日に供養(くよう)が行われたと記されることにより、建久8年に完成したと考えられます。また東大寺復興には、周防で切られた材木が使われたことが文献や年輪年代調査等ですでに確認されており、同じ産地の木材が浄土堂にも使用されたこと、完成年の文献による記録が裏付けられたこと、伐採年と完成年が近いことから、伐採後、直ちに運ばれて部材に加工され、組み上げられたであろうという経緯も推察されます。

 

 この部材は、9月26日(日)まで、一階の「歴史工房」にて展示しております。また、11月23日(祝・火)午後3時から当館ホールで開催する歴史文化フォーラムで上記の年輪年代調査をされた光谷先生の講演会が行われます。ぜひご来館ください。