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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第3回:城郭談義(その2)「探訪! 古代山城の空間を歩く」

 2010年6月15日
学芸員 堀田浩之

 早春の一日、当館企画の歴史の旅「鬼ノ城と吉備の歴史空間」に随行し、参加者の皆さんと日本でも有数の古代山城を歩いてきました(今年3月13日に実施)。講座や展示情報などで事ある毎に紹介してきた岡山県総社市の「鬼ノ城/きノじょう」は、私の大好きな城郭の一つです。発掘調査を踏まえた史跡の整備事業が継続的に行われており、とくに家屋が復元された西門周辺には、角楼や版築土塁のほか、検出された石積み・石敷き等の貴重な遺構が一堂に見学できます。遠く九州の太宰府の地に臨む大野城まで行かなくても、 兵庫県の西隣に古代の山城が体感できる絶好の歴史空間が待ち受けているのです。

鬼ノ城/復原された西門を遠望

 古代の日本にあって、畿内の王権に比肩しうる大きな政治勢力としては、山陽地方中央部に展開した「吉備/きび」が挙げられます。現存する前方後円墳の大きさでも、吉備の造山・作山の両古墳は堂々全国のベストテンに入ります。因みに今回の“歴史の旅”では、現地のボランティアガイドさんの案内のもと、作山古墳の墳丘上も歩いてみました。実際に数段の造成が判る前方部から後円部の高まりへと至り、そこからは、東に備中国分寺の五重塔、真北に「鬼ノ城」が望めました。「吉備」との関係史についての記述が『日本書紀』の中には少ないのですが、山向う繋がる日本海側の「出雲/いずも」勢力ともども、畿内の王権にとっては決して無視できる相手ではなかったことは、確かだと思います。そして「吉備」の実力を物語るかのように、「鬼ノ城」の個性がひときわ輝きを増すのです。

 岡山市の西方、JR吉備線に沿って吉備津→備中高松→足守→服部、と駅が続いています。付近は、備中高松城の水攻めで有名な羽柴秀吉ゆかりの古戦場ですが、北方の山塊には、山上部の斜めに城塁を見せる「鬼ノ城」の雄姿が目に映ります。山麓の砂川公園から舗装された坂道を自動車で上って行けば、標高400mの「鬼ノ城」の入口までは容易に辿り着けます(健脚な方は服部駅から徒歩90分ほど)。なお、「鬼」の字は[おに]ではなく[き]と読みます。これは古代の「城」を意味する音ですので、[き]の付いた城郭名称には注意が必要です(兵庫県たつの市にも「城山/きのやま」があります)。

 駐車場近くのガイダンス施設で、「鬼ノ城」の概要や見学ポイントを確認して、さっそく一周約3qの城塁巡りが始まります。擂り鉢を伏せたような山容をしている「鬼ノ城」では、比較的平坦な山上部を囲って城内と城外を仕切る城塁が、ちょうど崖の傾斜変換部分の地形を利用して造成されました。要所に人工の石積みによる城塁の補強を施し、谷筋には小さな渓流を堰き止める水門、尾根先の部分には巨石を交えたテラスが張り出し、かつ、版築土塁で周囲を結界して確保された30ヘクタールに及ぶ敷地内には、礎石建物群や貯水池も用意されており、山上でのそれなりの籠城生活に備えたものでした。

 見学の日の朝方までは小雨が降っていたのですが、あたかも尾瀬を思わせる水溜まりが城内の一画に広がり、平地では思いも寄らない山中の別世界を垣間見たような、幻想的な光景を目にしました。意外なほどの山の保水能力に驚かされるとともに、一方、雨天時の水処理の在り方にも随分と興味を惹かれたのでした。そういえば、西門から南方へと続いていく城塁の内側から見事な石敷き遺構が検出され、城内からの出水に対する城塁保全のための舗装施設であろうと想定されています。おそらく、春夏秋冬・様々な気象条件下にあって、山中に突如として出現した人工の造作物は、外部環境とは相容れない異質な存在として、維持の難しい脆弱な対象だったのでしょう。丹念な石敷きを用意させた築城者の最大の敵は、城塁の崩壊を促す自然界の威力であったと言えるかもしれません。

鬼ノ城/城塁内側の石敷き
鬼ノ城/城内風景:傾斜変換部分の城塁

 山には、「高まり」や「奥行き」といった戦術的アドバンテージに関する位相特性があり、そうした城郭に相応しい立地の系譜は中世にも受け継がれていきました。基本的に城郭となり得る空間構成の原理には、(1)守るべき高位の空間の設定・結界化、および、(2)そこへ至る進入路での防戦マニュアルを施設効果の表現から顕在化する、といった大きく二つの立場に集約される縄張の在り方が認められます。中世の山城では主に後者の方向性から、深奥部への動線の道順がそのまま、曲輪の配列や遮断施設を伴う城郭の本体として捉えられることになりますが、「鬼ノ城」を典型とする古代の山城では、むしろ前者の構成原理に則って、山上の別世界を囲郭する一本の城塁が、城郭としての高位の空間を縁取る軍事機能と景観演出の役割を担うのでした。麓から見上げた山城の雄姿も良いものです。