絵師草紙
 わたしは朝廷に仕える絵師の三河権守(みかわごんのかみ)。昨年の秋の終わり、朝恩により伊予国(いよのくに 今の愛媛県)の所領を賜わりました。家に帰って報告すると、妻や子ら、老いた母、親族たちがすぐに集まりました。みな、わたしの訴えが聞き入れられたことに驚き、喜び、笑いさわぎました。
 老母をはじめ親類縁者とわたしは祝杯をあげました。酔いが回り、歌えや踊れの無礼講となりました。酒が足りなくなったので、使いを取りに行かせると、使いもすでに酔っており酒をこぼしました。使いはなんとそれを水で薄めて給仕したのですが、酔っているため誰も気づきませんでした。
 翌日は朝から一日中、酒宴が続きました。
 酒宴の翌日、急いで使者を伊予国の所領に派遣し、様子をうかがわせました。使者の手紙によれば、その所領の住民は暴力的で、すでに年貢も前任者が取り立ててしまっている、とのことでした。つまりわたしの懐に入る収入などない、というのです。
 貧乏だった暮らしはますます困窮していきます。
 わたしの取り巻きはばらばらに離れていきました。老母と妻のみが、空腹をがまんして、貧困を忘れて、わたしとともに残りました。しかしこんな家族を見ると目の前が真っ暗になります。この胸中を、どうか察していただきたいのです。
 わたしは窮状をなんとか回復してもらおうと、法勝寺の弁という事務官の住まいへと赴き、訴えました。しかし弁は、「すでにその伊予国の所領は法勝寺のものとなっている」と、言うのです。
 しばらく逡巡しましたが、弁の上役の上卿(しょうけい)の屋敷へ参りました。こうなれば御所(ごしょ)さまの慈悲にすがるほかなく、このたび賜わった伊予国の所領がなければ暮してはいけない旨を、まめやかに訴えました。すると、上卿は急いで取り次いでくれました。
 上卿をつうじて、「その土地を返還する」との御所さまの勅答が得られました。
 そこでさらに、わたしは「伊予国はあまりに遠く、その土地を復興させる力もないので、もうすこし近い土地と取り替えてください」と、希望する所領先一覧を添えて、上卿に訴えました。ところが今度は、「ご思案あるはず」とばかりで、回答が得られないのです。
 その秋の終わりから愁いに沈んだまま季節はめぐり、あらたまの年の春も半ばになりました。そこで真(まこと)の事の次第を、こうして絵に描いて訴え申し上げる次第です。
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