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館長室へようこそ!

兵庫県立歴史博物館
館長 藪田 貫

 

【プロフィール】
 2014年4月1日、端信行前館長の後任として第4代歴史博物館長に就任しました。専門は歴史学、とくに日本近世史(江戸時代史)の社会史・女性史で、『武士の町大坂〜「天下の台所」の侍たち〜』(中公新書)などの著書があります。
 大阪生まれ、大阪大学大学院で修士課程を終え、大阪大学助手・京都橘女子大学助教授を経て、1990年から2015年まで関西大学文学部教授を勤めました。この間、関西大学博物館長を務めたほか、ベルギーのルーヴェン大学を中心に海外の大学との間で日本学の交流を行ってきました。
 博物館巡りは趣味といってよく、国内外の博物館・美術館にはかなり足を運んできました。しかし、まさか自分が博物館長になるとは予想しておらず、青天の霹靂でしたが、いまではお城の傍の博物館での勤務が身についてきました。

 

【「館長室へようこそ」について】
 「館長室へようこそ」では、歴史博物館に関する話題や、兵庫県の歴史・文化に関するニュース、国内外に出かけ、折に触れて感じたことなどをお伝えしたいと思っています。就任当初は不定期でしたが、いまでは毎月15日頃に更新することとなっております。近年は写真を添付する、字数もほぼ一定とするなど、読みやすいように担当者に工夫して貰っています。
 「歴史ステーション」にお越しになった時に、気楽に立ち寄ってお読み下さい。  みなさんの感想、お便りなども、お待ちしています。

 

あて先 : Rekishihakubutsu@pref.hyogo.lg.jp

 

 

 「兵庫」を歩く〜三木と小野〜 2017年7月15日

 歴史博物館は姫路にあるのですが、冠している「兵庫」は広大なので、時折、「どこにあるのですか?」と聞かれます。「兵庫」という限られた港津の地名が、一挙に、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の旧5カ国を覆う一大県域の県名に採用されたのですから、誰しもその名前から、博物館が姫路にあることを想像することは難しい。しかも博物館が開設されてまだ、34年にしかなりません。どこにあるの?―という問いとは、まだまだ付き合っていかないといけないでしょう。

 その一方、姫路に通っているわたしにとっても兵庫はデカイ!!JRで通っているだけなら、沿線の地名は耳に慣れてきますが、その周辺は蚊帳の外。そうした地域に入るには、決意がいる!―そう理解して、年に何度か挑戦していますが、悲しいかな、車の運転ができない。思いがあれど、現場に行けないもどかしい思いを、当館「友の会」有志のお蔭で果たすことができるという幸運な瞬間が、時に巡ってきます。今回は、その話です。

 4月14日には、昨年、国の史跡に選定された三木合戦の城跡群を三木市文化財保護委員宮田逸民氏の案内で廻りました。天正6〜8年(1578〜1580)の別所氏と織田・秀吉軍との間で繰り広げられた「干殺し」合戦として知られていますが、双方の城跡、付城跡・土塁等が良好に保存されているのです。別所氏の三木城跡を起点に、秀吉本陣の平井山城跡や法界寺裏山の這田村法界寺山ノ上付城跡・朝日ヶ丘土塁などを歩いたのですが、双方の丘陵の間に、沈むようにして三木城跡がある―という地理的配置に感嘆しました。

 さらに5月29日には、小野市の掘井算満氏・坂田大爾氏らの案内の下、天保8年(1837)2月に起きた大塩の乱の参加者で、獄死した堀井義三郎の招魂碑を見学しました。明治13年(1880)に建てられた碑は民有地にあるのですが、そこに至るには許可を得て、自衛隊青野ヶ原演習場内を通らなければなりません。実際、野営中の一団がいる中を、草木をかき分け、2メートルを超える巨碑に辿り着き、折しも乱後180年にあたるということで、全員で合掌しました。碑は大阪天満を向いているそうです。

 両日とも歩いて思ったのですが、巡見に先だって宮田氏や掘井氏が雑草や柴・竹を刈り取り、歩けるように整備してくれていたのです。国指定といえども、そういうボランティア精神のないところでは、文化財の価値は減っていくことでしょう。

 

 

慈眼寺城跡から見下ろす三木城跡

 

 

平井山城跡縄張り図

 

 

朝日ヶ丘土塁

 

 

堀井義三郎招魂碑

 

 

   
 
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