兵庫県立歴史博物館 館長 藪田 貫 |
「兵庫」を歩く〜三木と小野〜 2017年7月15日 |
歴史博物館は姫路にあるのですが、冠している「兵庫」は広大なので、時折、「どこにあるのですか?」と聞かれます。「兵庫」という限られた港津の地名が、一挙に、摂津・播磨・丹波・但馬・淡路の旧5カ国を覆う一大県域の県名に採用されたのですから、誰しもその名前から、博物館が姫路にあることを想像することは難しい。しかも博物館が開設されてまだ、34年にしかなりません。どこにあるの?―という問いとは、まだまだ付き合っていかないといけないでしょう。
その一方、姫路に通っているわたしにとっても兵庫はデカイ!!JRで通っているだけなら、沿線の地名は耳に慣れてきますが、その周辺は蚊帳の外。そうした地域に入るには、決意がいる!―そう理解して、年に何度か挑戦していますが、悲しいかな、車の運転ができない。思いがあれど、現場に行けないもどかしい思いを、当館「友の会」有志のお蔭で果たすことができるという幸運な瞬間が、時に巡ってきます。今回は、その話です。
4月14日には、昨年、国の史跡に選定された三木合戦の城跡群を三木市文化財保護委員宮田逸民氏の案内で廻りました。天正6〜8年(1578〜1580)の別所氏と織田・秀吉軍との間で繰り広げられた「干殺し」合戦として知られていますが、双方の城跡、付城跡・土塁等が良好に保存されているのです。別所氏の三木城跡を起点に、秀吉本陣の平井山城跡や法界寺裏山の這田村法界寺山ノ上付城跡・朝日ヶ丘土塁などを歩いたのですが、双方の丘陵の間に、沈むようにして三木城跡がある―という地理的配置に感嘆しました。
さらに5月29日には、小野市の掘井算満氏・坂田大爾氏らの案内の下、天保8年(1837)2月に起きた大塩の乱の参加者で、獄死した堀井義三郎の招魂碑を見学しました。明治13年(1880)に建てられた碑は民有地にあるのですが、そこに至るには許可を得て、自衛隊青野ヶ原演習場内を通らなければなりません。実際、野営中の一団がいる中を、草木をかき分け、2メートルを超える巨碑に辿り着き、折しも乱後180年にあたるということで、全員で合掌しました。碑は大阪天満を向いているそうです。
両日とも歩いて思ったのですが、巡見に先だって宮田氏や掘井氏が雑草や柴・竹を刈り取り、歩けるように整備してくれていたのです。国指定といえども、そういうボランティア精神のないところでは、文化財の価値は減っていくことでしょう。
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