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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第35回:瀬戸内航路と吉田初三郎 2013年2月15日

学芸員 鈴木 敬二

 

 鳥が高い所から広い範囲を見おろすような地図を鳥瞰図(ちょうかんず)といいます。大正から昭和戦前を中心に活躍した画家の吉田初三郎は、なかでも鳥瞰図を数多く描いたことで知られています。

 初三郎が数多く描いた鳥瞰図は、地形・交通などの情報の他に、写実的かつ細密な絵を描き加え、地図を見る者が、まるでその場所を旅しているかのように感じさせるかのようなものでした。構図の特徴は、主題となる海・山・渓谷・都市を中心に大きく描くと共に、周辺の地形を極端にゆがませ、より広い範囲を紙幅に描き込むことにより、実際にはとても一枚の地図には描き得ないほどかけ離れた場所にある都市や島などを描き、果ては外国の都市までもが図の中に表されることさえあるのです。

 

写真1 大阪商船瀬戸内海航路図絵
〔印刷折本、吉田初三郎画、大正14(1925)年、当館蔵〕

 

 もともと洋画家を志していた初三郎は、恩師であり関西洋画壇を主導した鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)より民衆芸術の完成を嘱されました。そして取り組んだ最初の作品『京阪電車御案内』〔1913(大正2)年〕を時の皇太子(のちの昭和天皇)がご覧になり、「これは奇麗で解り易い、東京に持ち帰って学友に頒かちたい」と賞賛したといわれます。そのことを伝え聞いた初三郎は、「(鳥瞰図を掲載した)名所図絵のために生き、名所図絵のために死すべき」覚悟を固く心に誓ったと、自らの文章に思いを綴ります。

 初三郎の盟友ともいえる油屋熊八(別府温泉観光の父と評される人物)は、日本に於ける代表的鉄道、汽船、ホテル、遊覧地、その他の交通機関で発行する高級案内図の八割は初三郎が描いたと、彼が経営するホテルの案内書(もちろん鳥瞰図を初三郎が描いている。)に記しています。鉄道に関しては当時の鉄道省が最大のパトロンであり、同省が大正10年に発行した『鉄道旅行案内』に掲載した多数の鳥瞰図・挿絵が彼の人気を決定づけることとなりました。その他、大小の私鉄が彼に旅行案内の制作を依頼しています。

 汽船会社のなかでは大阪商船との関係が最も深いのではないでしょうか。大阪商船は大阪を起点に瀬戸内海などを航行する船主が合同し、1884(明治17)年に設立されました。大阪を中心に関西の海運を中心に従事し、日露戦争後に遠洋航路に乗りだした後にも、瀬戸内海航路は会社の基礎をなすものとして充実が図られたのです。

 

写真2 大阪商船瀬戸内海航路図絵(部分拡大)

 

 大阪商船が大正14(1925)年に発行した『瀬戸内海航路図絵』所収の鳥瞰図「大阪商船瀬戸内海航路図絵」は、初三郎がわが国の海上交通を描いた鳥瞰図の代表作といえるでしょう。瀬戸内海を北側上空から望み、画面の中段に瀬戸内海を描きます。瀬戸内の大小の島々はやや誇張気味に大きく描き、その島々を縫うように複雑に張り巡らされた瀬戸内海航路を、ピンク・紫・緑・青・茶・黄・赤などの色を用いて描いています。まるで汽船が行き交う瀬戸内海全体を本当に眺めているかのような気にさせてくれるこの作品のリアルさは、初三郎が「大正広重」として賞賛されたことを改めて思い起こさせてくれるとともに、加えて複雑な交通路線を明快に示している点は、「死生を賭して国家交通教育に尽さむ」という彼の覚悟が見事にあらわれているようです。もちろん「台湾」「琉球」や富士山など、通常の地図にはとても描き得ない遠くの場所を描くという手法も、彼独自のスケールの大きさのあらわれといえるでしょう。

 ちなみに兵庫県に関する部分では、神戸と兵庫だけが各地と航路で結ばれています。大阪商船の開業当初には、大阪と坂越(赤穂市)を結ぶ幹線航路と、飾磨(姫路市)と四国の多度津を結ぶ支線航路が存在しましたが、どちらも短期間で廃止されています。また大阪と淡路島などを結ぶ航路については、内国航路整理のために大阪商船は摂陽商船という会社を設立し、使用船とともに譲渡しているため、この図には掲載されていません。

 大正時代の大阪商船は、内国航路を整理する一方で有望な航路は充実を図り、なかでも阪神間と当時新興の観光地であった別府温泉を結ぶ航路を1912(明治45)年に開始し、温泉客などの輸送量増強にも努めました。この際、大阪別府線に最初に投入された紅丸〔くれないまる(初代)〕は一等室だけではなく二等室も甲板上にあり、船室や食堂にいながら四国の島々が眺められたことや、二等室にも床に絨毯を敷き、三等室をたたみ敷の大広間として好評を博するなど、瀬戸内海の女王として君臨したと伝えられています。

 

写真3 鳴門丸(もと初代紅丸)
〔絵はがき部分、当館蔵〕
写真4 紫丸
〔大阪商船瀬戸内海航路図絵(裏面部分)〕

 

 当然のように初三郎自身も大阪商船の同航路を利用したことが記録に残されています。1927(昭和2)年に刊行された『新和歌浦名所交通鳥瞰図』のあとがき「絵に添へて一筆」の文末には「昭和二年一月 海上風靜かなる瀬戸内海の朝ぼらけ・紫丸サロンにて。吉田初三郎」と記されているのです。紫丸(むらさきまる)は1921(大正10)年に瀬戸内海航路用として大阪商船が建造した総トン数1,591トンの貨客船であり、1924(大正13)年に建造されたディーゼル船の紅丸(二代)と同様に快適な設備を誇る船でした。

 

写真5 別府百景 定期船の出航
〔絵はがき、当館蔵〕
写真6 大阪商船神戸支店
〔大正11年(1922)〕

 

 油屋熊八が観光開発に力を注いだ新たな観光地・別府温泉。その別府と阪神間を結び入湯客を運んだ大阪商船。そしてこれら観光資源と交通機関を鳥瞰図という形に結実させた吉田初三郎の仕事は、「余暇」という概念が芽生え始めた大正時代当時の人々にとって、瀬戸内海を渡る旅の好伴侶となったことでしょう。