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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第10回:姫路煉瓦めぐり 2011年1月15日

学芸員 鈴木 敬二

 当館の南隣にある姫路市立美術館など、姫路市内では現役の煉瓦建築がまだ残っています。今回は市内で見られる煉瓦のお話をします。

 幕末のわが国に西洋文明が堰を切ったように流入して来ると、煉瓦造りの工場や公共建築、土木構造物などが相次いで建設されるようになりました。1873(明治6)年に東京銀座の煉瓦街が建設されるなど、煉瓦は新しく始まる時代の象徴として各地に広まっていきましたが、コンクリートの普及などによりその全盛期は長く続かず、関東大震災(1923年)の頃には煉瓦建築の数と煉瓦生産高は急速に減少して行くのです。

 

姫路市立美術館の全景

 

@姫路市立美術館

 もともと旧日本陸軍第十師団の武器庫として建設され、戦後はしばらくの間、姫路市役所庁舎として使用されました。美術館として使用するために補修の手が加えられていますが、外観上は往時の特徴を残しています。アーチ形の窓や扉の形が煉瓦を積んで造る建物の特徴と言えますし、赤煉瓦の所々に配置された御影石が外観上のアクセントになっています。

 

姫路市立美術館の外壁

 基壇の部分には全面的に黒っぽい煉瓦を使用しています。これは「焼過(やきすぎ)煉瓦」と呼ばれ、色が濃いだけではなく、煉瓦内部に水分が浸透しにくいとも考えられています。このため焼過煉瓦を基壇に用いることにより、装飾的効果とともに強度を増す効果を期待したのかもしれません。

 煉瓦の形は一般的に長方形(直方体)で、幅の長い側面を「長手」、短い側面を「小口」と呼びます。美術館にみられる煉瓦の積み方は「イギリス積み」と言って、長手ばかりを見せる段と、小口ばかりを見せる段とを交互に繰り返すように積んでいきます。姫路近辺の煉瓦建築のほとんどはイギリス積みで築かれています。

 

男山配水地公園の煉瓦塀

A男山配水地公園の煉瓦塀

 姫路城北西の山上に建設された男山配水池。姫路市の中心部に水を送るために1931(昭和6)年に竣工しました。美しい展望で知られる男山配水池公園の西側に、写真のような煉瓦塀が残されています。設置年代は不明ですが、この塀の積み方は、一段の中に長手と小口とが交互に現れる手法を採っています。このような手法は「フランス積み」と呼ばれ、イギリス積みとくらべて強度が比較的弱い反面、美観に優れていると言われます。ところがこのフランス積み、イギリス積みと比べ積むのに手間がかかるためか、このほかには姫路市内での採用例を私はまだ確認していません。

 

市川橋梁の橋脚

BJR山陽本線市川橋梁

 最後にJR市川橋梁をご紹介します。JR山陽本線は山陽鉄道という私設鉄道会社により、1888(明治21)年12月には明石〜姫路間が開業しました。開業当初の橋梁は単線で、現在のように複線開業したのは1899(明治32)年のことです。今でも煉瓦で築かれた開業当時の橋脚や橋台が使用されています。

 写真のうち左側は上り線、右側は下り線で、どちらの積み方も広い意味でのイギリス積みです。上り線の橋脚の形は五角形で、先端に隅石を配置するなど、水流や漂流物に対する防御が施されています。下り線はこのような措置は施されませんので、恐らく後の複線化時に建設されたものと考えられます。

 また「焼過煉瓦」が上り線の橋脚に用いられています。煉瓦4段のうち1段は焼過煉瓦だけが積まれ、黒い縞模様が作られており、新築当時は装飾効果が高かったはずですが、現在はすっかり汚れています。

 今回ご紹介した以外にも、姫路近辺には煉瓦建築が点在していますので、また別の機会にご紹介したいと思います。みなさんも煉瓦をご覧になるたびに、近代姫路の姿に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?