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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第4回:羽衣とひれ 2010年7月15日

学芸員 今野加奈子

 羽衣伝説は、ほとんどの人にとって覚えのある話だろう。天女が天より降ってきて、地上で水浴びをしていた様子を見た男が、天へ帰すまいと羽衣を隠した。そのため、天女は天へ戻れなくなり、男と結婚するが、のちに羽衣を見つけ、天へ帰るという話である。滋賀県の余呉湖や静岡県の三保の松原を舞台にしたものがよく知られており、どちらも『風土記』に記載されていたと考えられている。

 ここで私が気になるのは、羽衣である。私の持つ羽衣のイメージは、ひらひらした長い布であるが、昔の人はどんなイメージを持っていたのであろうか。

 『紫式部日記』にヒントとなる記述がある。寛弘5年(1008)10月16日の一条天皇行幸について述べた中で、「ひれ」というものを身につけた女房たちを見て、「天降りけんをとめごの姿」つまり天女の姿のようだと、紫式部が記している。では、「ひれ」とは何だろうか。

 「ひれ」は比礼、または領巾や肩巾などと書き、『古事記』や『日本書紀』においては呪力をもつ宝物として描かれるものである。また、天武天皇11年(682)に、采女などに「ひれ」などの使用を禁じた記録が残っているので、このころには宝物ではなくなっており、装飾として身につけていたことが伺える。そして紫式部の時代においては、「ひれ」とは、正装する際にいわゆる十二単の上から、首から肩に掛けて身につけた布のことであった。普段は身につけない。12世紀に原本が成立した「年中行事絵巻」には「ひれ」が描かれており、五節舞(ごせちのまい)を踊る舞姫が身につけているのを確認できる。それを見ると、私のイメージする羽衣そっくりである。

 これらのことから、紫式部も羽衣を「ひれ」のようなもの、つまりひらひらした長い布と考えていたのではないかと思われ、それがその頃の羽衣の一般的なイメージだとできるだろう。

いわゆる十二単。これに「ひれ」等を加えると正装になる。

 ところが、中国で羽衣といえば、鳥の羽を縫いつけた衣服だったらしい。そして羽衣を身につけていることは仙人の特徴の1つであるという。(吉村怜「仙人の図形を論ず−法隆寺金堂薬師如来台座の墨画飛仙図に関する疑問−」『仏教芸術』184)冒頭の羽衣伝説は、中国の神仙思想の影響を受けたものとされる。よって、天女の羽衣についてのイメージも鳥の羽を縫いつけた衣服であっていいようなものである。しかし、紫式部のころはそのようなイメージは持っていなかった。このような違いはどこから生まれたのであろうか。

 さて、今回はここで筆をおきたい。またこのコラムの順番が回ってくるので、続きはその時に書きたいと思う。