伝説の渓谷で


 最奥(さいおう)の集落を通過して、更(さら)に3qほど山道を進むと渓谷(けいこく)が現れました。人や車の往来はほとんどなく、希に登山者や釣(つ)り人、林業関係者に出会う程度で、渓谷を下る水音だけが耳に残ります。

 ここには、カツラやトチノキの巨木(きょぼく)が点在し、中でも、ツキノワグマが3頭ほどなら楽に入れそうな洞(ほら)を持つ、大トチノキが目を引きました。その傍(かたわ)らには、雨で葉を光らせたヤマアジサイも咲(さ)いています。天候は今ひとつですが、フィトンチッドやマイナスイオンのシャワーが降り注ぐのが目に見えそうなほど清々(すがすが)しい渓谷です。

 渓谷の木々を、ヒラヒラッと渡(わた)る小鳥の姿がありました。それはオスのオオルリです。オオルリは春先に東南アジアなどから、繁殖(はんしょく)のために日本へ渡る野鳥です。オスは、顔が黒く、腹は白、そして背中と頭が美しい青色で、見る者を魅了(みりょう)します。美しいのは姿だけではなく、コマドリ、ウグイスと並び、日本三鳴鳥に数えられる美声の持ち主でもあります。

 渓流(けいりゅう)に沿った林を好むオオルリですから、この渓谷で見かけても何の不思議もありませんが・・・おや、くちばしには虫をくわえています。そしてメスも姿を現しさえずり始めました。
 野鳥の多くは、求愛やテリトリーを示すために、通常オスだけがさえずり、メスはさえずりません。ところがオオルはメスも美しくさえずるのです。ただし、それは、外敵が接近したケースなどにみられる、警戒(けいかい)のサインでもあります。
 
 どうやら私は、このオオルリのペアに嫌(きら)われているようです。おそらくどこかに巣を構えているため、過敏(かびん)になっているのでしょう。そこで、オオルリが警戒を解く距離(きょり)まで退き、観察することにしました。

 すると、オスが大きなイモムシをくわえて現れましたが、すぐには巣へ向かうことはせず、毎回、ほぼ決まった場所で周囲の安全を確認してから、どこかへ飛んでいきます。その時、一直線に谷を下るものがあり、行く先を目で追うとそれはメスです。メスは対岸にある岩にしがみつくようにとまったかと思うと、サッと身を翻(ひるがえ)し飛び去ります。
 オオルリの巣は、こんな所にあったのです。双眼鏡(そうがんきょう)で確認すると、それは、「ここに巣がある」と指を差されても、すぐには見つけられないほど、岩の隙間(すきま)を巧妙(こうみょう)に利用し、コケを集めてカムフラージュを施(ほどこ)されています。 

 巣の場所が判ったものの、残念なことに、葉っぱが邪魔(じゃま)をして、ここからは中を伺(うかが)うことができません。それでも、親鳥が来ると、葉っぱの隅(すみ)から、僅(わず)かに見え隠(かく)れする黄色いくちばしが、盛んに餌(えさ)をねだる様子や、巣から持ち出される白く大きなフンが、ヒナたちの順調な成長を物語っています。
 そうこうしている間に、折からの不安定な天候が急に悪化し、バタバタと大粒(おおつぶ)の雨が落ちてきます。渓流の雨を甘(あま)く見ると思わぬ事故になりかねません。今日はこれで引き上げることにしました。

 翌日、再び訪れると、巣の様子が昨日とは違(ちが)い、いやに静かです。時折、覗(のぞ)いていた黄色いくちばしも見えません。これはどうしたことでしょう。早速、対岸に渡り巣を確認すると、もぬけの殻(から)になっていました。
 巣立ちをするにはまだ早いので、捕食者(ほしょくしゃ)の糧(かて)になってしまったのでしょう。巣の中には、真新しいフンが残り、その出来事がつい今しがたであったことを推測させます。親鳥たちは、未だにこの現実が受け入れられないのか、オスは餌を運び、メスはいきり立つようにさえずっていました

 梅雨明け間近、平家滅亡(へいけめつぼう)の伝説を秘めた渓谷で、余りにもあっけない命の終末に「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の四文字が頭に渦巻(うずま)く一日でした。

文責 増田 克也


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