国際オリンピック委員会(IOC)のフアン・アントニオ・サマランチ会長の出身地であるスペイン、カタルーニャ自治州のバルセロナでオリンピック開催を実現に向けて、1986年に開催されたIOC総会で開催が決まった。冷戦終結後初の夏季オリンピックとなった。
また、バルセロナ市内のオリンピック体育館を磯崎新が設計したほか、開会式では坂本龍一がマスゲームの音楽を作曲、会場でオーケストラを指揮するなど、日本人が競技以外でも活躍した大会となった。
柔道男子78キロ級で、後に格闘家としても有名になる日本の吉田秀彦選手が金メダルを獲得。吉田は大会直前に同71キロ級の古賀稔彦と練習(乱取り)を行ったが、その最中に古賀が左膝を負傷するという事故が発生。古賀はその負傷をおして出場し、吉田とともに金メダルを獲得。
男子陸上400mで、日本の高野進選手が決勝進出し、8位に入賞。
当時中学2年生で14歳になったばかりの岩崎恭子が200m平泳ぎで金メダルを獲得。
男子陸上マラソンでは、森下広一がメキシコシティオリンピック(1968年)の君原健二以来24年ぶりのメダルを獲得。 女子陸上では、マラソンの 有森裕子がアムステルダムオリンピック(1928年)の800mの人見絹枝以来64年ぶりのメダルを獲得。

アルベールビルオリンピック(XVI Olympic Winter Games)は、1992年2月8日から2月23日までフランスのサヴォワ県アルベールヴィルで行われた冬季オリンピック。日本は金1・銀2・銅4のメダルを獲得
64カ国・地域、1,801人(男性1,313、女性488)が参加。
72年札幌冬季オリンピックの笠谷幸生以来、ノルディック複合団体・前半ジャンプで、日本チームの三ヶ田礼一、河野孝典、荻原健司は、大ジャンプを連発.。翌日のクロスカントリー(3人×10km)でのタイム換算で2位のオーストリアに2分27秒の大差をつけた。ジャンプでは下位に沈んでいたクロスカントリー王国、ノルウェーが追い上げ、2位のオーストリアに迫ってきていた。2位グループ、ノルウェーとオーストリアは必死に追い上げるが、荻原が8.5km地点を通過した時点で、600m以上の差がついていた。そして、ゴールまであと100m付近で、荻原は、国旗・日の丸を受け取り、それを振りながらゴール、前代未聞のゴール前の「ウイニング・ラン」であった。世界選手権、ワールドカップで好成績をあげ、彼らは、それまで国家の期待を一身に背負ってという感じで、常に悲壮感があった日本選手とは全く違ったタイプだった。日本の代表と言う意識は持ちながらも、悲壮感に押しひしがれる事無く、国際的な舞台でも、実力を遺憾なく発揮していく新しいタイプのオリンピック・ヒーローの誕生と言えたのである。
女子スピードスケート・1500mでは、前回のカルガリー大会で5種目全てに入賞しながらもメダルに一歩届かなかった橋本聖子が3位に入り、悲願の銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。
冬季五輪で日本人女子としては、橋本が史上初めてのメダリストとなり、その次にフィギュアスケートの伊藤みどりが2人目となる。
女子フィギュアスケートの伊藤みどりには金メダルの期待がかかっていた。しかし、オリジナル・プログラムでジャンプ失敗の転倒が響き、フリー演技では五輪史上女子選手初のトリプルアクセルを成功させたものの、クリスティ・ヤマグチ(アメリカ)に一歩及ばず、銀メダルとなった。それでも日本選手初の女子フィギュアでの五輪メダル獲得。
男子スピードスケート・500m、黒岩敏幸が2位銀メダル、井上純一が3位銅メダルを獲得。
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