古文書を読む―織田信長朱印状―

テーマ解説

「天下布武」の朱印

 さて、この文書には信長の「天下布武」印が、朱色の印肉で押されています。こうした朱色の印章が押された文書を、当時の人々は「朱印状」、と呼んでいました。ですので、この古文書の名前は「織田信長朱印状」とつけられているのです。この「天下布武」印によって、この文書が信長の意志によって作成され、それを伝えるものであることが示されています。

 ただし、この文書の文字自体を書いた人物は信長本人ではありません。かつての上流階級の人物は、みな右筆(ゆうひつ)という書記役の家来を抱えており、ほとんどの場合、文書の執筆はこの右筆が行いました。信長の右筆については、これまでの研究で3名ほどが判明しています。この朱印状の場合は、筆跡から楠長諳(くすのきちょうあん)という右筆が執筆したと考えられます。

織田信長朱印「天下布武」
織田信長朱印「天下布武」

 さて、信長のこの「天下布武」印は、岐阜城を攻略した永禄10(1567)年から使用がはじまったことがわかっています。「天下布武」という文面は、武力によって天下に号令するとの意志を示しています。この翌年、信長は足利義昭を奉じて京都に進出しますが、この印章の使用は、すでに岐阜を手に入れた段階で、天下を治める構想を練っていたことを示しているのだろうとされています。

 さて、こうした印章を使った古文書は、戦国時代から多くの大名が用いるようになっていました。次の写真は関東の戦国大名後北条氏の文書です。枠の上に虎が寝ている印なので、虎の印判状とも呼ばれています。また、その次の写真は甲斐武田氏の文書です。龍の図柄が描かれた朱印が押されていますので龍朱印状とも呼ばれています。

相模後北条家の虎印判状、(弘治2〔1556〕年)9月14日北条家朱印状(本光寺文書)、神奈川県立歴史博物館蔵
相模後北条家の虎印判状、(弘治2〔1556〕年)9月14日北条家朱印状(本光寺文書)、神奈川県立歴史博物館蔵
相模後北条家の虎印判状、(弘治2〔1556〕年)9月14日北条家朱印状(本光寺文書)、神奈川県立歴史博物館蔵
甲斐武田家の龍朱印状、天正4(1576)年4月7日武田家朱印状、山梨県立博物館蔵
甲斐武田家の龍朱印状、天正4(1576)年4月7日武田家朱印状、山梨県立博物館蔵
甲斐武田家の龍朱印状、天正4(1576)年4月7日武田家朱印状、山梨県立博物館蔵

 さて、印章が使われる以前は、花押(かおう)というサインの一種が用いられていました。 例にあげたのは、足利義詮(よしあきら)、赤松義則(よしのり)のものです。足利義詮は室町幕府の二代目の将軍、赤松義則は、室町時代の播磨守護赤松氏の四代目です。

足利義詮の花押 文和元年(1353)12月24日足利義詮御判御教書、当館蔵
足利義詮の花押 
文和元年(1353)12月24日足利義詮御判御教書、当館蔵
赤松義則の花押 明徳3年(1392)2月23日赤松義則書下、当館蔵(喜田文庫)
赤松義則の花押 
明徳3年(1392)2月23日赤松義則書下、当館蔵(喜田文庫)

 このように、当時の上流階級の人々は、それぞれ自分で形を決めた花押を持っていました。こうした花押を文書に書き込むことで、その文書がその人の意志で出された真正なものであることを示したのです。

北条氏政花押 年欠12月11日北条氏政書状、当館蔵(喜田文庫)
北条氏政花押
年欠12月11日北条氏政書状、当館蔵(喜田文庫)

 今でも、重要な書類にはみなさん印章を押されると思います。印章の役割と花押の役割は、よく似ていると思われませんか。昔の花押は、今の印章の役目を果たしていたのです。そして、花押に代わって今のように印章を使うことが多くなっていったのが、この戦国時代から江戸時代の初めにかけてでした。印章の使用は、主に東日本の戦国大名から始まったことがわかっています。信長の朱印状は、こうした時代の流れの中に位置づけられるものなのです。

 なお、印章の使用がはじまっても、江戸時代までは花押も並行して使われ続けました。信長、武田氏、後北条氏の文書も、印章を押したものとともに、花押を据えたものも多数残されています。左の写真は後北条氏四代目当主の北条氏政の花押です。

紙の形

 この文書は紙の上半分にだけ文字が書かれています。なぜでしょう?

年欠4月13日 織田信長朱印状(当館蔵)
年欠4月13日 織田信長朱印状、当館蔵

 この文書、よくみると真ん中に横方向の折り目が通っています。これは、紙を半分に折って、その状態で書いていく、という紙の使い方をした文書なのです。そして、こういう紙の使い方をする古文書はほかにもたくさんあります。

折紙の例(天正14〔1586〕〜文禄3〔1594〕年)横浜良慶書状、当館蔵(喜田文庫)
折紙の例
(天正14〔1586〕〜文禄3〔1594〕年)横浜良慶書状、当館蔵(喜田文庫)

 たとえばこの文書。くずしがきついのでおよそ文字には見えないかもしれませんが、紙の真ん中に横へ折り目が入っていて、上半分は上から、下半分は下から文字が書かれています。

 これは、まず紙を半分に折って、折り目側を下、口が開いている方を上にして書いていきます。まず上半分を書ききってから、また口が開いている方を上にしたまま裏返しにして、続きを書いていきます。そうすると、紙を広げたとき、このように上半分が上から、下半分が下から書かれているようにできあがります。

 こうした紙の使い方を、当時の人々は「折紙(おりがみ)」と呼んでいました。

竪紙の例 文和元年(1353)12月24日足利義詮御判御教書、当館蔵
竪紙の例 
文和元年(1353)12月24日足利義詮御判御教書、当館蔵

 それに対して、この写真のように、折らずに普通に文字を書いていった文書もたくさんあります。こういう紙の使い方を、当時の人々は「竪紙(たてがみ)」と呼んでいました。

 竪紙か、折紙かは、主に書かれる内容や、宛先の人物の身分の高低によって使い分けられていたようです。竪紙が本来の古文書の紙の使い方で、これは重要な内容、あるいは尊重しなくてはいけない相手に宛てて出される文書で使われました。

 これに対して折紙は、竪紙に比べると軽微な内容や、目下のものに出す文書に用いられた紙の使い方です。したがって、重要な内容にもかかわらず折紙を用いた場合、差出人は相手を相当見くだしている、ということになります。つまり折紙はやや略式な書き方なのです。

 信長が出した文書については、竪紙よりも折紙の方が圧倒的に多いことがわかっています。略式な書き方の文書を多用するということは、それだけ自分を偉く位置づけ、相手を見くだしている場合が多い、ということになります。武力でつぎつぎとライバルを打ち破りながら、「天下人(てんかびと)」として自らを他とは隔絶した上位に位置づけようとした信長の政権のあり方が、こうした文書の紙の使い方にも現れている、と考えられているのです。

この古文書からわかること

 さて、最後にこの古文書を読んで、そこからわかることをまとめてみましょう。まず、この古文書には冒頭で、赤井・荻野を許した、と書かれています。「織田信長朱印状について」で述べたように、赤井・荻野氏は、最終的には天正7(1579)年まで信長に抵抗しました。しかし、この文書からは、どうやらその途中で一旦和議を結んでいたということがわかるのです。

黒井城跡主郭部 (明智氏占領後に大幅に改修されていると見られる)
黒井城跡主郭部
(明智氏占領後に大幅に改修されていると見られる)
黒井城石垣 (明智氏の占領後に建設されたものと見られる)
黒井城石垣
(明智氏の占領後に建設されたものと見られる)

 続いて信長は、「ただし、去年から織田方に味方しているものたちの所領については、今後も変更がないようにする」と述べています。

 この文言は、信長と直正が和議を結ぶと、信長に味方したことによって確保できた領地が、再び直正方に奪われてしまうのではないか、という懸念があったことを示しています。これに対して、信長は「変更を加えない」と宣言していることになります。信長に味方をした丹波の国衆を安心させるための文言と言えます。

 さて、そのつぎに、「(矢野の)所領については現状通りを保証します。」と述べています。赤井・荻野との和議の成立は、矢野弥三郎の所領も影響を受ける可能性があったことになります。それに対して、信長が現状通りを保証しているのです。

 こうして見ると、この文書は、信長が赤井・荻野との和議によって発生する現地の領主たちの懸念を払拭するために、その一人であった矢野弥三郎に宛てて出されたものと考えられるのです。そして、光秀の配下として安心して今後も働くように、と伝えているのです。

 このころの丹波の国衆たちは、織田方と赤井・荻野方との間でゆれ動いていました。光秀が一旦は黒井城を包囲しながら波多野の寝返りによって大敗したように、いまだどちらについた方がよいのか見極めかね、その時その時の状況を見てたちまち寝返りを打つ勢力はたくさんいたのです。この文書は、せっかく織田方についていた矢野弥三郎を、反織田方に寝返らないようつなぎ止めるために出された文書、と言ってよいでしょう。

八上城跡主郭部 (明智氏占領後に部分的に改修されていると見られる)
八上城跡主郭部
(明智氏占領後に部分的に改修されていると見られる)
八上城跡中心部入り口の石垣 (波多野氏段階のものか、明智氏の占領後のものか、議論がある)
八上城跡中心部入り口の石垣
(波多野氏段階のものか、明智氏の占領後のものか、議論がある)

 さて、この古文書は信長が明智光秀を派遣して、丹波を攻略しようとしていた時期のものです。「織田信長朱印状について」では、ひとまず天正3(1575)年から7年の間のものであると述べましたが、この古文書をよく読み、また周辺の事情を調べていくと、さらに年代が絞れそうです。

 まず、この古文書では、明智光秀を「惟任」と呼んでいます。「織田信長朱印状について」で述べたように、光秀が「惟任」姓を与えられたのは天正3(1575)年でしたが、それはこの年の7月のことでした。これに対して、この文書の日付は4月13日です。ですから、光秀が惟任を名乗っている4月ということで考えれば、天正3年ではなく、天正4年以降ということになります。

 同じように、今度は年代の下限を調べてみましょう。ここでは、この文書の冒頭で名前があげられている、荻野悪右衛門尉直正に注目します。直正は天正6年3月に、黒井城内で死去しているのです。これも4月以前のことですから、この文書は天正6年ではないことになります。このように調べていくと、この文書は天正4年か天正5年の4月13日のもの、と考えられるのです。

 さらに、「織田信長朱印状について」で概略を述べた光秀の丹波攻めの経緯とよくつきあわせてみると、この文書のなかに、「去年から織田方に味方しているものたち」と出てくる点が注目されます。光秀が丹波攻略をはじめたのは天正3年ですから、この「去年」というのがこの天正3年にあたり、この文書は天正4年のものである可能性が出てくるのです。

 そして、この朱印状には、本来はセットで残されていたと見られる光秀から矢野宛ての添え状も残されています(『新修亀岡市史』資料編二、領主編108号文書)。この添え状も年代が書かれていませんが、朱印状の翌日にあたる4月14日付で、「信長から朱印状が出たので送ります」、という用件と、「どこかはまだわからないが出陣を命じられました」、という光秀の近況が伝えられています。

 この4月14日という日付に注目して、信長の伝記である『信長公記(しんちょうこうき)』という史料を見てみると、天正4年の4月14日、信長が光秀らに大坂石山本願寺攻めを命じた、との記述が出てきます。光秀の添え状にある「出陣を命じられた」というのは、まさにこのことを指していると見てよいでしょう。このことから、この文書の年代は天正4(1576)年、と考えておきたいと思います。

 さて、こうして年代を比定してみると、この文書では、「いろいろと嘆願してきていますので、許すこととします」などといかにも赤井・荻野氏から降参の申し入れがあったかのように書かれていますが、実際はこの年の正月、光秀が大敗北を喫したばかりの時期に出された文書ということになります。とすると、本当のところは大敗した織田方がひとまず休戦にするために和議を結んだ、というところだったように考えられるのです。

 このコンテンツでは、織田信長の朱印状を、背景となる歴史事実と文書に書かれている文言とをつきあわせながらじっくりと読んでみました。わずか一通の古文書ですが、その内容を十分に理解するためには、様々な角度から考えていく必要があります。そして、一通一通の古文書からわかる情報は、実に断片的なものです。ですので、大きな歴史の流れを事実に基づいて調べようとすると、こうした古文書などの信頼できる史料を膨大な数読み込んでいく必要があります。歴史の本や学校の教科書は、そうした作業の成果をぎゅっと圧縮して書かれているのです。

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