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ひょうご史QandA

ひょうご史Q&A
質問

「兵庫」の県名の由来を教えてください。

回答

「兵庫」という地名の確実な史料の上での初見は、平安時代後期、長治元年(1105)の年紀を持つ古文書(「橘経遠寄進状」九条家文書)に記されている、「兵庫庄」という荘園名になります。

この兵庫荘の近隣には、古代以来瀬戸内海水運の重要拠点となっていた大輪田泊がありました。大輪田泊については、12世紀後半に平清盛が日宋貿易の拠点となることを目指して整備を進めたことがよく知られています。この大輪田泊も、鎌倉時代になると「兵庫津」と呼ばれるようになっていきました。

兵庫津は中世から近世にかけても水運の拠点として繁栄を続けていきましたが、江戸時代の終わりに外国との貿易を行う開港場として指定され、あらためて重要な拠点となりました。開港場は実際には兵庫津の東隣となる神戸村の浜辺に造成されましたが、兵庫津には明治新政府によって周辺地域の地方行政を行う役所が設置され、これがやがて現在の兵庫県へと発展していきました。このように、当初のころ兵庫に役所が置かれた県だったので、兵庫県と呼ばれるようになったと考えられています。

ただし、そもそも12世紀の段階までになぜ「兵庫」という地名が生まれたのかについては、現在のところはよくわかっていません。古代のころに朝廷の兵器庫が置かれていたためではないかなどの説もありますが、なお今後考察を進めていく必要がありそうです。

なお、明治初年の兵庫県成立過程については、兵庫県ホームページのうち「県域の変遷」や「よくあるご質問」でも詳しく説明されていますので、どうぞご参照ください。

質問

兵庫県域を構成する旧国名を教えてください。

回答

現在の兵庫県域は、摂津・丹波・但馬・播磨・淡路の5つの旧国を中心に構成されています。神戸市を起点に反時計回りにみていくと、神戸市の主要部分から三田市、阪神間にかけてが摂津国全13郡のうち5郡にあたります。また、丹波篠山市・丹波市は丹波国6郡のうち2郡に相当し、丹波国の残り4郡は京都府の中部を構成しています。県域の北部、日本海側は但馬国で、神戸市の垂水区・西区・北区から西となる県域西部の瀬戸内海沿岸部は播磨国でした。そして、淡路島は島全体で淡路国となっていました。これらの旧国は律令国家の成立期である7世紀に成立し、これ以後の地域の歴史の大枠を規定していきました。

なお、これら五国のほかに、赤穂市西部の福浦地区は1963年(昭和38)までは岡山県域に属しており、旧国では備前国にあたります。また、佐用郡佐用町北西部の旧石井村地区周辺も、1896年(明治29)までは岡山県に属し、旧国では美作国に含まれていました。ですので、詳しくみると、現在の県域は旧国では七国にまたがることになります。

質問

中世の県域の支配者にはどのような人たちがいましたか?

回答

中世のはじめ、平安時代の終わりごろには院や貴族、大寺社の荘園が数多く形成されました。鎌倉幕府ができると守護が設置され、県域の5国についても武士たちが任命され、摂津・播磨・丹波については鎌倉後期には執権の北条氏一門の人物が守護を務めるようになりました。

南北朝になると、戦乱の中で各国の守護も比較的多くの交代がみられましたが、室町時代に入るころからは、おおよそ摂津・丹波・淡路が幕府管領を務める細川氏の一門、播磨・備前・美作は南北朝内乱における活躍でその地位を確立した赤松氏、但馬は同じく南北朝内乱の過程で山陰地方を中心に勢力を築き上げた山名氏と、それぞれの国の守護家が固定化されていきました。ただし、播磨・備前・美作の赤松氏は嘉吉の乱(1441年)で一旦滅亡し、その後応仁の乱まで山名氏が播磨の守護を兼ねた時期もありました。

戦国時代には、赤松氏が応仁の乱の中で播磨・備前・美作の守護職を回復し、但馬の山名氏と幾度かの抗争を繰り広げました。しかし、赤松氏の守護支配は、重臣の浦上氏の台頭などによって不安定なものとなっていきました。戦国半ばを過ぎると、備前から室津にかけて勢力圏とする浦上氏のほか、揖保郡の龍野赤松氏、姫路周辺の小寺氏、三木など東播磨を勢力圏とした別所氏、宍粟郡の宇野氏など、赤松氏の重臣層が半ば独立した勢力を持って割拠し、守護の赤松氏はその上でバランスをとりながら君臨するといった体制になっていきました。

一方細川氏は、戦国時代の初期には中央では幕府の実権を握るにいたる時期もありましたが、戦国半ばを過ぎるとやはり下剋上の波にもまれるようになり、次第に四国を本拠とする重臣の三好氏の勢力が強まっていきました。そうした中で、淡路の細川一門は三好氏に滅ぼされ、丹波でも細川氏に代わって多紀郡の波多野氏、氷上郡の赤井・荻野氏など各地の勢力が割拠する状況となっていきました。

質問

江戸時代の県域に大名はどのくらい置かれていたのでしょうか?

回答

江戸時代の県域の大名については、まずは関ヶ原の合戦(1600年)の後、池田輝政が播磨一国52万石を与えられました。池田家ではこのほかにも家康の娘が産んだ次男の忠継に備前一国28万石(岡山県)、三男の忠雄に淡路一国6万石が与えられ、さらに弟の長吉も因幡国鳥取(鳥取県)で6万石に封じられ、一門合わせて100万石近くを支配する大大名となっていました。これは家康の娘を妻とする輝政に対して、大坂の豊臣秀頼や西国の豊臣恩顧の大名たちに対する押さえ役を期待したためと考えられています。

しかし、こうした池田家による大領国支配は長続きせず、17世紀半ばを過ぎると、県域周辺は徳川譜代の中小大名や、幕府の直轄領、寺社領などが複雑に入り組みながら配置される地域となっていきました。これも経済の中心地である大坂を守るために幕府がつくりだした体制と考えられています。

このなかで最も大きかったのが15万石を与えられた姫路藩(姫路市)で、そのほか、6万石程度で推移した明石藩(明石市)、5万石程度の篠山藩(丹波篠山市)、龍野藩(たつの市)、4〜5万石程度で推移した尼崎藩(尼崎市)のほか、三田(三田市)、柏原(丹波市)、出石(豊岡市)、豊岡(豊岡市)、小野(小野市)、三草(加東市)、林田(姫路市)、新宮(たつの市)、山崎(宍粟市)、三日月(佐用町)、赤穂(赤穂市)などの各藩が配置されていました。また、淡路は阿波(徳島県)の蜂須賀家の所領の一部とされていましたが、重臣の稲田氏が洲本に配置され、半ば独立した支配領域となっていました。

こうした各藩の配置は、17世紀の終わり、元禄年間ごろまでには一定の安定をみるようになりましたが、その後も享保年間に播磨国宍粟郡の安志(姫路市)周辺に小笠原氏が1万石を与えられ新たに大名になるなど、若干の変動もみられました。また、西国の押さえとして重要拠点とみなされた姫路藩は、18世紀中ごろに酒井家が入部するまでは、所領の領域はほぼ変わらないものの藩主家は頻繁に交代させられていました。

さらに明治初年、それまで1万石以下の所領とされていた旗本のうち、但馬村岡(香美町)の山名家、播磨福本(神河町)の池田家が高直しによって1万石以上となり、あらたに大名に加えられるようになりました。 こうした変遷の結果、明治初年の廃藩置県直前では、県域に本拠を構える1万石以上の大名家は18家を数えるに至りました。 県域における幕末期の大名家については、兵庫県ホームページのうち「幕末の大名領」でも説明されていますので、合わせてどうぞご参照ください。

質問

県域の街道について調べたいのですが、調べ方を教えてください。

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質問

県域の城郭について調べたいのですが、調べ方を教えてください。

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質問

ご先祖について調べたいのですが、調べ方を教えてください。

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質問

県域に伝わる主な文化財について教えてください。

回答 回答テキスト回答テキスト回答テキスト回答テキスト回答テキスト回答テキスト回答テキスト。
質問

兵庫県立歴史博物館の館蔵品について教えてください。

回答

兵庫県立歴史博物館には、およそ30万点にのぼる各種歴史資料が所蔵されています。このなかには、国指定重要文化財1件、兵庫県指定文化財5件も含まれています。当館が扱う分野は、主に近世までの歴史・美術と、民俗・城郭となります。こうした館蔵資料のうち主要なものは、このサイトの「名品紹介」や、映像ライブラリー「ザ・コレクション―兵庫県立歴史博物館館蔵品選―」でもご紹介していますので、あわせてご覧ください。

質問

県内の博物館・美術館などについて教えてください。

回答

兵庫県内にはおよそ150館ほどの博物館・美術館・資料館・文学館・天文館・動物園などの施設があります。県立では、県立美術館、県立歴史博物館、県立人と自然の博物館、兵庫陶芸美術館、県立考古博物館の5館が設けられています。 これらの博物館・美術館等の多くは「兵庫県博物館協会」に加盟しています。兵庫県博物館協会のホームページでそれぞれの館の概要が紹介されていますので、まずはここからお入りいただき、ご興味のある館がありましたら、それぞれの館のサイトをご覧いただいたり、直接お電話されるなどしてお問い合わせください。

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