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館長室へようこそ!

兵庫県立歴史博物館
館長 藪田 貫

 

【ご挨拶】
 平成26(2014)年4月1日、端信行前館長の後任として第4代館長に就任しました。
大阪に生まれ、大阪大学大学院で修士課程を終え、大阪大学助手・京都橘女子大学助教授を経て、1990年から2015年まで関西大学文学部教授を勤めるーというのが略歴です。専門は歴史学で、おもに日本の江戸時代、「近世」と呼び慣わされている時代の「社会と人」について研究してきました。好きな言葉は、「楽しみを以て憂いを忘れる」。

 

 博物館・美術館巡りは趣味で、町歩きの途中、フラッと博物館・美術館に立ち寄るのは大好きです。しかし博物館長になってからは、高齢者から幼児まで、さらに海外から、またさまざまな障がいのある人など、じつに多様な人々が来館されることに一番大きな衝撃を受けました。
 また開館以来36年目を迎え、学芸員の世代交代期を迎えているタイミングで館長に就任したので、若い学芸員諸君が、「ここが自分の居場所」だと思い、将来の夢を託せる博物館になってほしいと願っています。
 四季折々の姫路城を見ながら仕事ができるのは最高の環境です。

 

 「館長室へようこそ」は就任以来、館長ブログとして、書き綴っています。毎月15日頃に更新することとなっております。
なお挨拶は、館長職6年目に入るのを契機として改訂しました。また写真に変えて自画像を添えました。遊び心とお許しください。
「歴史ステーション」にお越しになった時、気楽に立ち寄ってお読み下さい。
 みなさんの感想、お便りなども、お待ちしています。

 

あて先 : Rekishihakubutsu@pref.hyogo.lg.jp

 

 

茨木のり子への想い〜詩人と歴史〜2020年6月17日


 「緊急事態宣言」解除を受けて6月2日、当館も開館をすることになったのですが、そのお知らせをするに当たって、総務課長から「館長のメッセージを出してはどうか」、と提案されました。予期していなかったのですが、たしかに、未曽有のコロナウイルス禍を経験している最中、歴史博物館が、歴史としての「今」を発信しないのは不自然だと納得し、挨拶文について考え始めました。

 しかし、通常の挨拶文ではこの瞬間を表現するのは物足りない、さてどうするか…。そこで思い付いたのが、詩でした。書棚の詩のコーナーに立ち、手に取ったのは茨木のり子さんの詩集です。なぜなら彼女の詩集が一番、たくさんあるからで、なにか手がかりをと手に取ったのが『食卓に珈琲の匂い流れ』(花神社、1992)でした。パラパラめくっていて出会ったのが、つぎの詩「問い」でした(引用は原文の改行通り)。

人類は もうどうしようもない老いぼれでしょうか

それとも まだとびきりの若さでしょうか

誰にも  答えられそうにない  問い

ものすべて始まりがあれば終りがある

わたしたちは いまいったいどのあたり?

颯颯の 初夏の風よ

 内容はもちろん、季節感もピッタリの詩に感動、即座に決まりました。開館挨拶では、この詩に付けて短文を綴り、「大きな歴史も小さな歴史も」と題を付けました。

 わたしが大正15年(1926)生まれの女流詩人に出会ったのは、妻のお蔭です。中学か高校の国語の教科書に載っていた詩が、強烈に印象に残っていたということから、ある時、二人の話題に上ったのです。それは「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」で終わる『自分の感受性くらい』でした。

 教えられて読んだ時の強烈さは、忘れられません。パンチを食らった気分になりました。つぎに出会ったのは、「わたしが一番きれいだったとき」。その一節に、こうあります。

  わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争に負けた

  そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのしのし歩いた

 ―――そうか、敗戦時、彼女は19歳、たしかに「一番きれいだったとき」だ。戦後生まれのわたしが歴史学に目覚めたのも、19歳。大学で教えを受けた先生(男性ばかり)たちは、敗戦時には15歳から20歳前後で、彼らが戦後、日本の歴史学の復興を目指して奮闘し、その教えを受けたことで今の「わたし」があることに気付きました。この詩人は、自分=女性を読み込むだけでなく、「歴史」を「詩」に読み込んでいると知ったのです。それが、彼女の詩集を集めるきっかけとなりました。

 詩人茨木のり子への傾倒は、単著として初めて著した『国訴と百姓一揆の研究』(校倉書房、1992)のあとがきで「最上川岸」を引いていることにも表れていますが、さらなるインパクトが待っていました。同年に出版された文集『ハングルへの旅』(第2刷、初刷は1986年)との出会いです。戦後復興した歴史学、とくに日本史学が1980年代に入り、欧米との比較でなく、東アジア諸国との共時性に座標軸を移そうとしていたその瞬間と、『ハングルへの旅』は共鳴し、わたしの魂を揺さぶったのです。その後、自分の目の前に、理解しがたい何かがあれば、一度、「茨木のり子に聞いてみよう」と考えるようになりました。

 『ハングルへの旅』の末尾に、尹東柱(ユン・ドンジュン)の詩「空と風と星と詩」が引かれていますが、この詩を含む一文が、1996年版高等学校国語教科書『新編現代文』(筑摩書房)に掲載されました。これまた「自分の感受性くらい」と同様、教科書を通じて、世に尹東柱を知らしめる大きな働きをしたのです。

 じつは、この教科書にわたしの小文も掲載されています。

 「女性史とことば」と題する一篇ですが、ここにも韓国体験が前提としてあります。再び、三度、わたしの魂は彼女の作品と共振したのです。20年余も歳の差がありながら。 したがって2006年2月17日の彼女の死は、ショックでした。母でも姉でも学友でもないにも関わらず、大きな衝撃を受けました。それから8年後の2014年の初夏、都内の世田谷文学館で「茨木のり子展」が開催されました。

 その年4月1日にわたしは、兵庫県立歴史博物館長に就任していますが、上京の機会があった5月のある日、用務を済ませるとすぐに世田谷文学館に直行しました。憧れの彼女と出会うために。

 コロナウイルス禍によって気付かされた、詩人茨木のり子さんへの想いです。