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兵庫県立歴史博物館 館長 藪田 貫 |
摩文仁(まぶに)の丘と「島守の塔」―「慰霊の日」を前にー 2019年6月15日 |
去る3月初め、沖縄に行く機会がありました。肺がんを患い、国立沖縄病院に入院している友人を見舞うためです。沖縄本島を覆う雨雲を突き抜け那覇空港に降り立つと、一気に南国の雰囲気が押し寄せてきます。ああ!沖縄に来た−と実感する瞬間です。
幸いなことに友人は前日、退院をしたということで、病院ではなく、那覇市内の県立公文書館での再会となりました。天気も回復し、南国らしい青空が広がっていました。
見舞う目的が、思いがけない形で果たせたのに気をよくして翌日、もう一つの目的を果たしに摩文仁の丘に向かいました。その目的とは、「沖縄の島守」と慕われた沖縄県知事島田叡(しまだ・あきら)氏の慰霊塔に参拝するためです。
学生時代、沖縄返還運動を体験した世代として、復帰後の沖縄には何度も足を運んでいますが、「島守の塔」には訪れたことがありませんでした。兵庫県立歴史博物館長になったことが、兵庫県の偉人島田叡の存在を知るきっかけとなったのです。そして、折あれば墓参をしようとの願いが、この日、叶えられました。
平和記念公園と言えば、沖縄戦で亡くなった20万人を超す戦死者の墓標として知られる「平和の礎(いしじ)」が知られていますが、その光景は壮観です(写真1)。
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「平和の礎(いしじ)」を抜けると、先端に「平和の火」が灯されており、その日、修学旅行に来た本土の高校生がボラティアの説明を受けていました(写真2)。
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島田叡氏の慰霊塔(「島守の塔」)は、琉球黒松の茂る摩文仁の丘の麓に建てられ、碑面には「戦没沖縄県知事島田叡・沖縄県職員慰霊塔」と刻まれています(写真3)。
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さらに続く階段の先にはもう一基、「終焉之地」と書いた石碑が建っています。その後ろにはポッカリと大きな空洞があり、島田氏らはガマ(地下壕)で亡くなられたことが推測されます。沖縄防衛第32軍司令官牛島満中将らが同じ摩文仁の丘で自決し、日本軍の組織的戦闘が終結したとされる昭和20年6月23日の前後であったと思われます。
「島守の塔」の傍にもう一基、「断而敢行鬼神避之」と刻まれた小さな石碑がありました(写真4)。
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「島田叡知事座右銘」と添え書きがあり、背面には「神戸市の医家に生る、兵庫県立第二神戸中学校、第三高等学校、東京帝国大学を経て官途に就き、最後の沖縄県知事として来住す」とあります。「縁故厚き」三高の野球部有志が、昭和46年2月に建立した物です。
『故事ことわざ事典』には「 断じて行えば鬼神も之を避く(出典は「史記」)とは、固い決意をもって断行すれば、何ものもそれを妨げることはできないというたとえ」とあります。壊滅必定の沖縄に知事として赴く決意の現れでしょうか。
今年も「慰霊の日」の6月23日には、摩文仁の丘で沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。摩文仁の丘を思って、追悼したいと思います。