兵庫県防災教育副読本「明日に生きる」
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ひ碑き記つ津すまねんさんりくたいへいようおきあねあねよしのこらいまごらくおも(え)いわみやあねよしおおへいしんなみよしがいなみさいだいなみひょうばんかくなみけんとうほくたいへいようおきひょうばんけんせんがいさんおおなみおおなみしょうなみじゅうみんせいとうほくとうほくしょうひょうばんじゅうしんなみなみけんなみたいけんひつようたつおおなみねんしんないりくみんつたらいおおなみそんたんなみたつなみたつけんなみ浪おお▲大(写真提供 東日本大震災写真保存プロジェクト)ねん念」のような碑は、内深くまで津にも伝えるためのものでしの想定を大きくこえのとう達に語りつごうと考ではありませんが、しょのとう達がしん入点よりをこえるの大地区にあります。8)の後、そのとう達が建てたと23)年の東地方の手前で地方では、「大35)年のチリ地じ板したことのない住による津は、じゅう来が津にのまれました。したこともないような大てるな」というきびしい内ようの碑をこえる津へのそなえを子をした人々だったからこそかもしれなことではないでしょうか。「高き住 此より下に家を建「ここより下に家を建」は、岩3000人近いぎせい者を出した1933(昭年に三地方をおそった大点よりさらに高い場所に近りんの住いわれています。2011(平止まり、姉 何度も津ほか、近年最点を記した表してくることを、津た。 しかし、東るものであり、多くの表 姉地区の先ぞは、当時けい験さらに高い地点に、「ここより下に家を建を残しました。想定やけい験えたのは、実さいに想ぞうをぜっする体ません。 長い年月をこえて先たいを想定すること。いずれも口でいうほどかん単う来のさい害は児に和 想てるな」てるな」と記す「大県宮市姉による津でさえ、この碑地区ではひ害をまぬがれた方も多かったそうです。におそわれている東の津であった1960(昭じ板が各にありました。表をけい験地方太じ板ぞの教えにけんきょに学ぶこと、想定やけい験にそなえるために必おおなみねんつきひ大津浪記念碑いこわかつ居孫楽へ惨禍津浪ここた処津浪記たつきひてこ念碑手古吉わ和つ陸津波た民成北じつひ太平洋沖地震波吉つつきひひ波北津浪記念碑の大波和震津波つわじつちつ地陸波波民つ北平洋沖地震波じつ波つつ吉津波たひつし波孫験じ事要 45

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