七、
その時ふと、空から鳥の羽毛のようなものが落ちてきた。冷たく鼻先をかすめて、地面に溶けていく。
その白く冷たい鱗片は、空のカケラのごとく、次々と落ちてくる。遠い空の底から、大気の波に乗って、
たくさんの白い魚達が、灰色の空に放流されたかのようであった。。
『あぁ、雪だねぇ…。どうりで、冷えこむと思ったよ…。』
後から後から、優しい空気が舞い降りる。
『初雪だから、お祝いしなくちゃ…。初雪だから…。』
井尾田氏は、そう呟くと、ハッと何かに気付いたように、萩の花と雪を見比べた。
『あぁっ!思い出した。あの子は…。あの子は、去年の初雪の日の、お礼に来てくれたんだ。あの日、竹林を散歩
してた時、罠から逃がした子狐だったんだよ…。』
ありがとう、の一言を、井尾田氏に届けに来たのだろう。今日が、一年めの初雪の日だと知っていたのだ。
『どうして僕は、気付いてやれなかったのだろう…。可哀相なことをしてしまった。こんなに、いろいろ…、
大変だったろうに…。』
降りては溶ける、雪のひとひら、ひとひらが子狐の気持ちのような気がしてならなかった。
ありがとう、さようなら、のくり返しであった。
『ガンマ、帰りに豆腐屋に寄ろうか…。明日、竹林に油揚げを持っていくことにしよう。また、来年まで、
お互い頑張って暮らして行かなけりゃ…。』
そう言って、ポケットに手をつっこむ。
一体、私は来年まで彼の近くに、いるのだろうか?また一緒に初雪を、目にする日が来るだろうか?
ひなげし荘への帰り道、降りしきる雪の中で、希望と不安が絶え間無く、心をよぎった。
―あの、子狐はどうしたろう…。―
その夜、井尾田氏は熱燗をひっかけながら、何もかもを覆っていく雪を眺めていた。
汚れたものの上にも、美しいものの上にも、平等に降り積もっていく。多分、だからこんなにも雪は
美しいのだろう。冷たいけれど、生きている温度を感じさせてくれる。わけ隔てのない、静かな優しさがあった。
井尾田氏の心の中を、またほんの少し垣間見る事ができた、初雪の日の出来事であった。
おわり