五、

午後からは、古書店に訪れる人も増え、店主代理も忙しい。それでも井尾田氏は、暇を見つけてはお汁粉を
つくったり、古い文学全集を紐解いたりしていた。お汁粉の、甘く温かいにおいが、店の中いっぱいに広がる。
 高い天井には、丸い天窓があった。その上を、電線が走っている。下から眺めていると、何か大きな生き物に
奏でられるのを待つ、巨大な空の竪琴の様にも見えた。
北風達が笛を吹く。ヒョオッ、ヒョオッ、と風が泣く。
 ふたたび天窓を、見上げると、ふりそそぐ琥珀色の西日に、小雨がまじっていた。

 夕方に近ずき、お客の減った店の中は、しんと静まりかえっている。天窓から西日が差し込み、舞い上がる埃が
キラキラと輝いた。
流れて行く時間がハッキリと感じられ、本棚と本棚との間に、幾筋もの光の道が架かった。
 井尾田氏は急須から煎茶を入れると、一口飲んで本のページを繰った。
ふと、彼の顔を見ると、涙が頬を伝っていた。「新美・南吉童話集」を読んでいたらしい。いくつになっても、彼は
南吉の童話で泣いていた。彼の涙と、そぼ降る天気雨は、何故だかよく似ている。

 空気に不思議な香りがした。狐の嫁入りでもあるのだろうか・・・。子猫だった時分に、一度だけ雑木林の奥で
出くわした事があるのだ。
 西日が途絶え、ゆっくりと鉛色の雲が近づいて来る。ふと耳を澄ますと、遠くから鈴の音が聞こえて来た。こちらに
だんだんと、近づいて来る様だ。かわいらしい響きは、古書店の前で止まった、次の瞬間に格子戸が開く。
そこに、立っていたのは小さな子どもであった。
『いらっしゃい、どうぞ入って下さいよ。』
と、井尾田氏が言った。彼は、きまり悪そうに涙を拭い、鼻をかんだ。
彼は子ども好きだが私はちょっと苦手である。人間の子どもときたら、猫をみると目の色が変わるのだから。
彼らにしてみれば、親愛の情を示してくれているらしいのだが、ヒゲを引っ張るわ、尻尾を引っつかまれるわで、
過去に辛い思い出がある。
『さて、どんな本がいいだろう。小川未明、鈴木三重吉、有島武郎…、何が好きかい?』
子どもは、何も答えず。木の床を軋ませて、こっちに来る。私は慌ててリンゴ箱に隠れた。
 その子は黄色い毛糸のセーターを着て、ブカブカの吊ズボンを穿き、帽子に頭を押し込めていた。不恰好である。
その上、小さなつづらを背負っていた。
―あの中身はいったい何だろうか、―
おがクズの中から、様子をうかがう。外が余程寒かったのだろうか、山吹色の襟巻きに顔を埋めて震えていた。
『あ、君。ストーブの側でゆっくり選んでいいんだよ。どうぞこっちへ来なさい。』
井尾田氏が手招きする。その子は少しはにかんで、ためらいがちに肯いた。
そうして床にうずくまると、しばらくの間に次々と絵本を読み、疲れたのか寝てしまっていた。井尾田氏は奥から
持って来た毛布を掛けてやっている。
 夕日が商店街の屋根に手を触れて、寒さはいよいよ増していった。その子は、うたた寝から覚めて驚いた様子でキョト
キョト辺りを見回していた。
『おやおや、寝ぼけてるね。もう少し眠っていても良かったのに。』
奥の座敷から井尾田氏が顔を出した。また割烹着を来ている…。
『随分とさむいねぇ、あぁ、君は寝起きでもっと寒いんじゃない。良ければお汁粉を食べないか、僕の十八番
なんだけど。握り飯もあるから。』
こういう時、井尾田氏の繊細さがいやにまぶしい。いつも彼は純粋だったと、そんな感覚が消えないのだ。
小さな子どもとの会話や、私の毛並みを撫でるときの掌の感触。愛おしさや、絶え間無い暖かさを惜しまない。
それだけの強さが、備わっていた。
『遠慮しなくてもいいんだ、うん。僕もガンマと二人では寂しいから。』
その子は不思議そうに首を傾げた。そして初めて、口を開いたのである。
『ガンマ、って、なぁに?』
『あぁ、言ってなかった。猫でね、その辺に隠れてると思う。恐がりなタチなもんでね。』
井尾田氏はその子に椅子を勧め、私を探し始めた。やがて、リンゴ箱の中の私に気が付くと、
『あぁ、こんな所にいた。おがクズだらけじゃないか…。また掃除かなぁ。』
ブツブツと独り言を言って、箱から数個のリンゴと一緒に、私を抱き上げた。白玉粉だらけの手である。
白い粉だらけの大きな手に、赤い椿が咲いた様であった。
『さてさて、それじゃあ少し待ってて。鍋とお椀をとってこよう。あぁ、お玉もね。』

 私を床に放すと、井尾田氏は土間から台所へ行ってしまった。
その子は振り向くと、私をじっと見つめて、不器用そうにそっと手を伸ばしてきた。近くに寄ると、落ち葉と日向の
においがした。これは、冬の山のにおいである。
小さな手で、恐る恐る私の頭を撫でると、おがクズを一つ一つ摘んでくれた。

『この子は、リンゴのにおいがする。』
お汁粉のつがれた椀を差し出す井尾田氏に、その子は言った。物珍しそうに私を見て、次にもっと珍しそうに、
お汁粉を見つめた。立ち昇る湯気の中に、裸電球が揺れている。