二,
井尾田氏を見やると、彼はもう、マフラーを巻き,帽子をかぶって出かける
用意をしていた。首にぐるりと巻かれたマフラーは,彼の自信作である。
寄せ集めの毛糸で編まれたため、色がひしめき合っている。
「今日は、また一段と寒いなあ・・・。」
深緑の手袋をはめながら、ぎしぎしと階段を降りていく。
もちろん、私もお供についていく。
行き先は、商店街の中の古書店だ。
店主が長期旅行の間、井尾田氏が店主代理を頼まれたのである。
彼の本職は、自称詩人なのだが、近ごろサッパリ、筆が進まないようだ。
こんな調子では、行く行く出版社にも見放されるのではないかと、
こちらとしても心配である。
「ガンマ、見てごらん。今日は格別に美しいよ。」
町から見えるさかずき山を指差して、井尾田氏は目を輝かせていた。
彼は山が好きなのだ。
「僕はねえ、富士山のふもとで暮らすのが夢なんだ。毎日いろんな表情を、
いろんな角度から見てみたい。そして、山の言葉を聞くんだよ。
おはよう、おやすみとか、今日は雨だね、だとか。」
時々彼は、私にこんな事をたくさん話してくれる。そんな時、
楽しそうだが寂しそうで、寂しそうだが、嬉しそうだった。
「本当に生まれ変われるなら、大きな山になりたいよ。5月には、
あふれる程の緑をまとって、そよ風を生み、つばめやひばりのヒナ
を見る事ができる。山は無口な様でいて、いつも静かに、あらゆる
生き物と対話しているからね。だから人間の様に、孤独ではないと
思うよ。充足を知っているんだ・・・。」
こう語る井尾田氏の目は、深かった。ふいに、風の間をすり抜けて、
何処かへ行ってしまうのではないかと、私は少し不安になる。
返事をしてやる事はできないので、赤や黄色の落ち葉が舞い上がる
坂道を、一人と一匹で黙って登って行った。