和田山高校史

昭和23年(1948年)9月1日
兵庫県立農蚕高等学校和田山分校定時制課程
 農業科・家庭科として設立許可、和田山中学校に併置された。  農業定員25名、家庭定員25名     


当時の八鹿高等学校本館
昭和23年当時の枚田小学校

 和田山分校は戦後の混乱がまだ続く中でスタートした。独立した校舎は無く、枚田小学校に併設され、満足な設備も無く先生も不足した、多難なスタートであった。
 八鹿高校分校は、和田山、山口(朝来)、大屋、村岡、兎塚に設置された。定時制の授業形態は四年生で、昼間三日制で、そのうち一日は八鹿の本校で授業が行なわれていた。和田山町の住民は大正時代から教育振興、人材育成、地元発展のために高校設置を切望しており、その夢の一部が実現されたのである。

昭和27年 農業、家庭課程から普通課程に移行

 昭和29年3月の第1回卒業生は分校・本校合計8名(入学生37名)、うち和田山分校は5名であり
苦難を乗越えた卒業式であった。生徒数の確保、町村の財政援助などの観点から教育課程について反省と再検討が行なわれ、普通課程への変更申請が認可された。

1年間使用した和田山中学校第1期校舎
昭和28年 現在和田山高校の校地の一部になっている曲尾グランドに和田山中学校第1期校舎が建設され、枚田小学校で間借りしていた和田山分校は新設校舎に移転した。本来この土地は大正12年、東宮殿下御成婚記念事業として曲尾グランドが造成され、郡内の主要運動場として利用されていた場所である。(町長 枚田章二氏の貢献は現在も賞賛されている。)

昭和29年 和田山中学校第2期校舎が完成、中学校が曲尾の校舎に移転することになる。

昭和30年4月 和田山分校は再び枚田小学校の一部を借用して運営された。和田山町(和田山・東河地区)は南但町(糸井・大蔵地区)と合併する。独立校舎建設要望書が各関係方面に送られ、独立校舎への希望は高鳴るばかりであった。

昭和31年 農業・家庭課程はなくなり定時制普通科のみとなる。9月 和田山町・竹田町が合併し和田山町となる。
町の有志(安田氏)がミシンを寄贈するなど、地元からの支援が続いた。

昭和32年 校地買収に着手した。
昭和34年7月 専用校舎第1期工事完成。
昭和34年 伊勢湾台風 曲尾橋流される。
昭和36年3月 現在の曲尾橋が完成する。
昭和36年4月 普通科3クラス 商業科1クラスとなる。
昭和37年4月1日 八鹿高校定時制分校から、豊岡実業高校全日制商業科に管理が移行された。豊岡実業高校和田山分校の誕生である。

 全日制に変更されたが、和田山中学に隣接していた。右の画像は旧和田山中学校。
校章の由来(昭和40年)
       豊岡実業高校校長 犬束 德郎氏作
            
『高』を支える唐草模様は放長力極めて旺盛な常緑のスヒカズラや多年生葡萄草ホロギクなどから来た模様で、その形態は 萌え上がる若人の成長の象徴である。生徒諸君の洋々たる前途を祝福しているのである。唐草模様の上からワタとよみ下部中央部は山であり、本校の所在地和田山を意味する。
昭和39年 ブラスバンド部結成。指導者に山東町で薬局を営む瀬尾氏に指導を依頼し、独立式典の準備をはじめる。分校独立運動は和田山町だけでなく近隣の町からも独立への希望が強まった。独立高校へ向けて、地元町長(並川氏)すさまじい意気込みで県へ陳情した。

昭和40年 並川町長の決断で「和田山商業高校」として独立。農協組合長枚田氏の尽力は高く評価された。独立条件として県が出した条件は、鉄筋3階建ての新築、体育館・講堂の建築費の一部負担など六項目、総額費用四千六百万円だった。

昭和40年10月 和田山商業高校 校歌完成

 高橋校長の希望により、校歌中に「誠実」「実力」「力行」の校是を入れ、作詞は和田山町東河宮村の藤原東川(東河村長・旧和田山町長)氏にお願いし、作曲は校長の知人である西脇高校に勤務していた橋本喬雄氏であった。

昭和41年 和田山商業高校入学希望者が定員二百人に対して二百四十人の志願者が集まり、合格率81%と但馬では競争倍率の高い高校となった。生徒はクラブ活動に励み、校風を生徒自身が作り上げた。スキー部が国体に出場した。
昭和42年 体育館兼講堂完成。
昭和43年プール完成。老人大学併設。コミュニティーカレッジ開校。地域と密接に結びついた高校となる。

昭和44年 今までの四学級から五学級となる。
昭和48年 生徒部室完成。
昭和49年 商業特別教室棟が完成。
昭和48年 電子計算機(FACOM230-10E)導入
昭和51年 運動場整備工事
昭和53年 定員4学級(1学級減)180名

昭和53年~55年 普通教室棟工事(現在の校舎)
昭和56年 新電子計算機(FACOM V830)導入
昭和58年 生徒定員商業科5学級225名
昭和63年 トレーニング室完成(7月)・40周年式典
 現在も本館として残る和田山商業高校本館。独立の条件でもあった校舎。
昭和42年撮影
平成元年 情報科1クラス商業科4クラスとなる。中国語講座開設
平成4年 商業科3学級 情報科1学級となる。
平成6年 商業科2学級 情報科1学級となる。制服変更。同窓会よりトレーニングマシーン寄附受納
平成10年 創立50周年式典挙行
平成11年 校名変更「兵庫県立和田山高等学校」となる。新入生より総合学科4クラスとなる。(1クラス増)。校訓、校歌変更。校章は従来のものを使用する。
平成12年 初の海外修学旅行(マレーシア)
平成14年 2学期制へ移行。修学旅行で中国上海に行く
平成16年 4クラスから3クラスに学級減


平成10年正面玄関

平成12年初の海外修学旅行

新生和田山高校校歌

中国上海の地元学校と交流

和田山高校校訓の由来