学校の様子(豊岡中学校)
豊岡中学校(豊岡高等学校)(卒業者会誌「達徳」大震災記念号より)
【5月23日】
発震は第4時限の授業が始まって10分間経過した、11時10分でありましたので、職員の大部分と生徒の全部は教室にあったのですから、もし校舎が倒壊したならば、如何なる事ができたであろうと考えれば、実に心を寒う致します。
幸いにも幾分の破損ですみましたので、激震後は直ちに応急処理をなすと共に、一般の救援に従事し、校舎及び運動場は開放して罹災者の避難所、救護班の本部、傷病者の収容所等に使用させた。
<生徒記録>
立体幾何の時間に大震災起こる。
無意識の中に運動揚に避難す。校長先生並びに係りの先生より訓話並びに地震についての注意あり。寄宿舎側にて食事(昼食)をとる。
後、一団となって先生方の家に行き、家内道具を引き出す。
後、帰舎し、寮母より炊事部についての相談あり。炊事部の係りの誰か残りて指揮してくれとのことにて、暫時居残る。後、郡役場の方より、炊き出しをさしてくれとの事で、炊事の先生をさがすが見あたらず、校長先生に其の用件を聞き居残る。
後、保証人を見舞う。保証人は、外部へこの際出るのは危険故にこの避難所へ止まるように忠告されるが、他生徒の努力ぶりを見て居堪らず、遂に用心の上駅前通へ行く。講習の生徒と共に自転車屋と思われる倒壊家屋の下敷きとなっている女の人2人を出す。
他の方はタンスに頭を砕かれている様も悲惨。
小学校に負傷者を運ぶ。
【5月24日】
寄宿舎生徒に、一先帰宅して父兄の安否を問い、且各自の情況を報告し、26日午後1時過ぎまでに再び帰舎すべきを命じて解散させた。而して通学生の出校した者約80名をして教職員の指揮に従い、罹災者慰問の為に来られた人々の案内に従事さぜると共に、職員は学校の被害状況の精査に着手したが、学校の慰問に来る者、避難者を尋ね来る者、傷病者の見舞いに来る者が非常に多く、終日校内も運動場も雑踏を極めた。此の日から本県の衛生課、神戸市第10師団軍医部、京都府・大阪毎日新聞社等の救護班に寄宿舎として教室を貸与したので一層混雑を来した。
【5月25日】
昨日の経験に鑑み、昨夜中に計画を立てておいた通り、罹災者避難先案内を作成することにし、早朝から10数名の職員と選抜した生徒30名とで着手した。即職員生徒が10班に分かれて、豊岡町付近に在る野外避難者を歴訪して、其の世帯主の罹災前の住居所と現在の避難地とを記したカードを作りて整理し、世帯主名によりいろは別に分類して纏め、之を模造紙に書き連ねた。午後3時になって出来上がったので、豊岡駅前及び本校前に掲示して慰問者の便を図ったが、其の掲出した世帯数は770であったが、罹災者の慰問に来た人々は之によりて相当の便宜を得たようである。
尚、この日は学校の校舎校具の損害額の調査を纏めることにし、大凡之を完了した、この日からは傷病者を柔道揚に収容し、警官の1隊に講堂を貸与して宿泊せしめた。
【5月26日】
午後1時に全生徒が集まることになっている。午前中は既に集まった生徒を使い、前日のごとき慰問者の案内をさせ、別に約20人の生徒には豊岡小学校の校庭に設けられた救援本部に赴きて、配給係の配給品分配の仕事を手伝わせる。且つ、建築係の伝令として自転車を有する生徒数名を遣わして活動させたが、これは31日まで殆ど毎日の如く継続して行われた。
午後1時になって集まった生徒は約300人で、全生徒の約半数に過ぎないので、全部の情況を明らかにすることができなかったが、然し震災地の状況を見るに到底直ちに授業を開始する事などは不可能であると考え、5月末まで臨時休業をすることを定めて集まった生徒にこれを告げ、一場の訓話を行い、今後は家事の整理に急を要せざる者は、毎日午前8時までに来校して、学校の為活動するように命じて、一先解散せしめた。
【5月27日】
早朝から罹災生徒について正確な調査を行う。豊岡5、内川1、城崎1、港1の8区分に分かち、職員生徒数名を以て調査隊を組織し1区宛分担して各罹災生徒の避難所を尋ねて之を慰問し、罹災の種類・程度・学用最紛失の状況等を調べた。
〈調査結果〉
住宅焼失者(80名) 倒壊者(12名) 大破者(31名) 学用品・教科書紛失(甚だ多し)
 
結果を踏まえ生徒の救済方法について考究した末
学用品:各方面の学校等から続々寄贈された見舞金で購入、給与
教科書:発行者に頼み寄贈を乞う
この日は、豊岡町肉を実地踏査し、罹災地図を作成。謄写によって多数之をつくり、各方面に配布し、その便宜を図った。
また、各方面から受けた見舞いの電報や手紙に対する礼状を発送した。
【5月28日】
山崎理学博士の訓話を聞いた後、夫々部署を定めて校内の警戒や慰問者案内等に当たること前日通りだが、この日から地理博物等の担任者や有志の職員は、震災の研究に一層力を用うることにし、城崎、港方面に出張し、視察探検撮影等に大いに努力した。
【5月29日〜31日】
毎日同じように救援の為に努力すると共に、校舎校具等の応急修理・整頓等を行い授業開始の準備に力を用いた。

中学校(高校)生徒とともなれば、その力を支援活動・復興活動に使うことができる。生徒に危険がおよぶ活動内容は避け、予めどの段階で何が出来るのかを決めておくことも必要ではなかろうか。
この北但大震災において、豊岡中学校生徒の活動では、当日の救助活動・罹災者避難先案内
・避難者一覧表作成・伝令係・配給品分配・生徒の状況把握・炊き出し補助・其の他が記録されている。
当日の救助等の活動に関する記述としては、延人数として、
1.消防に従事した者(58人)
2.救護に従事した者
・死傷者を救出した者(38人)
・死傷者を運搬した者(39人)
・其の他の救護をした者(25人)
3.他人の財物を搬出した者(189人)
となっている。
この中学校の記録の中には、何人かの生徒が机の下に入り落下物を避けたとあるが、まだこの避難行動は一般的ではなかったように思われる。
生徒の作文中、先生が生徒をほっておいて自分だけ逃げたという記述もある。教師と言えども人間であり、その恐怖心は分からないではないが、児童生徒の生命を守る意識だけは持っていたいものである。