学校の様子(城崎小学校) 〜その4〜
「6月日誌」 城崎尋需高等小学校(学校日誌より)
【6月18日(水)】27日目

各戸被害調査、前日に引き続く。

【6月19日(木)】28日目
児童の被害
全焼;412
全壊;33
半壊;96
家族死亡;136
児童の死亡
専1年;1名
尋2年;3名
幼稚園;1名
補習;1名
【6月20日(日)】29日目

被害調査、各訓穏分担のもの出来上がり、町当局に提出す。
震災に関する記録、校長記述のもの視学宛発送せり。

【6月22日(火)】31日目
6月分俸給、但し本俸のみ、870円を町より受け取り支給せり。
【6月23日(水)】32日目
震災後、1ケ月に達す。
午前10時より、横死者280名に対し、町葬を以て追悼会薬師公園にて執行せらる。児童全部参列し、校長及び児童総代焼香をなす。
【6月24日(木)】33日目
各児童につき、死亡、負傷、住宅に関し個人別調査をなす。
本日調査せる統計次の如し。
 
死亡
負傷
住宅
 
全壊
準全
半壊
破損
小学校
4
1
2
9
342
29
6
30
70
幼稚園
1
0
0
0
50
2
0
0
7
補習
1
0
0
0
16
0
0
0
12
6
1
2
9
408
31
6
30
79
 

※学校日誌記載資料

児童出席数(6月17日調べ)
城崎町被害状況(其の1)
地区名
戸数
住宅被害程度
全焼
全壊
半壊
大破損
小破損
湯島
604
548
27
2
23
7
桃島
56
0
18
2
27
10
今津
42
0
3
2
5
16
702
548
48
6
55
33
城崎町被害状況(其の2)
地区名
住宅被害程度
全焼
全壊
半壊
大破損
小破損
湯島
548
27
2
23
7
桃島
0
18
2
27
10
今津
0
3
2
5
16
548
48
6
55
33
城崎町被害状況(其の3)
地区名
人口
死   傷
死亡
重傷
軽傷
湯島
2888
203
59
83
桃島
287
7
1
0
今津
235
1
8
2
3410
211
68
85
城崎町被害状況(其の4)
死亡者  男女別及百分比
大 人
38


18
114
54
小 人
21
10
38
18
扶養者死亡、致命傷に関する調査
 
小学校
幼稚園
補習校
合計
父母共死亡
3
0
1
4
父 死亡
6
0
0
6
母 死亡
25
4
0
29
他の扶養者死亡
1
0
0
1
父 致命
2
0
0
2
町全体が火の海と化し多くの死亡者、けが人が出たのに対し、ほぼ町の中心に位置する学校で、児童に1人の死亡者始めけが人すら出さなかった教師の働きに注目する。
地震発生時(土曜日11時10分)、低学年児童は下校あるいは下校途上であったであろうが、大半の児童は学校にいたものと思われる。大きな揺れ、そしてそれに伴う校舎半壊の中、子ども達は恐惰でパニック状態であったと考えられる。この時に一人の教師が日本刀をかざし黙ってついてこい、言うことを聞かない者は斬り殺す。」と怒鳴った。この言葉によって、子ども達は沈黙を保ち整然と山を越えて避難したという逸話が残っている。内容はともあれ、この一言が多くの子ども達の命を救ったことは間違いないところであろう。

また、当日の学校日誌に「職員が一致協力し、統一した臨機の対処」と記されているように、指示命令系統がしっかりとし、全職員が児童の安全確保のために組織として動いたことも重要な点だと考える。
また、震災6日目にしてテントを使用し授業を再開していることにも注目する。
6日目の学校日誌《社会》での記述「町民いまだ立たず。自失するか或いは自暴自棄に陥れるにあらざるか…」の通り、町全体が意気消沈している中で真っ先に動き始めたのが学校ではなかろうか。このことは町民全体に生きる力を与えるに大きな役割をはたしていたものと考えられる。
学校職員は、当日の児童の安全確保の働きや学校再開への働きと共に、復興等に関わる町事業にかなりの支援行動を行っている。過労による教師の病欠等を見ても、災害時の教員の勤務内容、時間等に一考を要すると考える。