【港東小常校震災実記より】
<豊岡>
大正14年5月23日午前11時9分57秒、突如として起こった一大鳴動と共に大地は震動し引き続き13秒間にわたり前後3回の烈震があった。その後数秒、更に第4次の強震が来た。以来6月18日までに360余回の地震に遭遇した。

しかし、その勢いは漸次衰え最初のように猛烈でなかったのは不幸中の幸いであった。当時、神戸測候所豊岡出張所の地震計は既に第一烈震に於いてピポットは外れ、且つその尖端を破損し抽針は糸のように屈曲し、遂に使用ができなくなったが、各地の測候所の報告により、最大振幅は下動約2p、及びこれに等しい水平運動であり、震央は円山川河口数マイルの沖合に位置し、震源は震央の直下約5000mの地点であり、地震の種類は地滑りに属すということが判明した。当町は最初の烈震に約500の人家を倒壊し、昼食の準備中で火気多く、家屋の倒壊と共に3個所より火災が発生した。

親をさがす者、子を呼ぶ者、倒壊家屋の下敷きとなって救いを求める者の悲鳴・号泣の声と家の倒れる音、物の爆発する音と相合し相混し悽絶惨絶、阿鼻地獄の叫喚を思わせ。当町の消防員は自家の危急を顧みず敏捷に活動し、水道の威力を善用し3個所に起こった最初の火災は完全に消し止め、進んで倒壊家屋の下敷きとなっている多数の人命救助に努力した。

しかし、午後2時過ぎ、新屋敷の郵便局付近より発火し、猛烈を極めた火災となったが、万難を排し鎮火に努力したが鎮火せず、午後5時過ぎには、宵田区の西側、役場の東側より発火し、南北一時に火の海と化した。また、電気動力に故障が生じ水道の利用が思うようにならず、遂に新屋敷の殆ど全部、竹屋、滋茂、中、久保、寺、宵田の全区と永井区の重要な地点を焼き尽くした。

当町局は、烈震直後、事の容易ならんことを察して、炊き出しを近隣の町村に求め、臨時救護所を小学校校庭に設けた。まった、一方に於いて東京大震の際に起こった不祥事を連想し、軍隊の出動を申請し秩序の維持を図った。又一方に於いては、死傷者の収容と救護に努めたが、猛火が校庭に近づき危険になったため、安全な中学校校庭に移動し安全を期したが、火はますます勢いを増した。且つ、また「激震が来る。」という流言が盛んに言われ、1万2千の町民は恐怖の余り周章狼狽して、混乱に混乱を加えた。幸い多数の県官・軍隊・憲兵・警官・その他各方面の来援があり、初めて蘇生の思いがした。
【乙丑震災誌より】
豊岡駅前の写真
豊岡駅前
豊岡中通りの焼跡
豊岡中通りの焼跡
午前11時1O分、家毎に昼食の炊事に忙しい時刻だった。
突如、耳を壁く百雷の響き、轟と天地を震撼する異様の一大鳴動が起こった。全ての人は「アッ」と極度の驚きに意識は奪われた瞬間、大地は忽ちゆらゆらと揺らぎだした.,急激な上下動、続いて振幅の大きい水平動rさては大地震!」と人々は直感する間もなく、家屋の倒壊する音響、同時にもうもうたる砂塵がぱっと起こった。

恐怖の悲鳴を上げて人々が戸外に飛び出す頃には、住宅・建物の多くは棟落ち柱倒れ、屋根も壁も打ち壊されてマッチ箱を踏みつぶしたようになった。大地は間断なく揺れに揺れて亀裂の個所ができた。円山川の水は氾濫して岸を洗し、道路を没した。山野庭園の樹木は根幹から揺いで空気を煽ち枝葉は騒ぎ、吹きまくる旋風が一時的に襲来して瓦礫を吹き飛ばす。

撹乱された気流に飛翔の力を失った小鳥はばたりばたりと地に落ちる。6時、7時燃え広がった大火の脅威は町の南北方向と西に向かって各区市街を焼き尽くし、宵田橋北、駅通り中央まで延焼が進んだ。豊岡大火の報は附近郡村を驚かせ、日高、出石の消防隊も続いて来着し消化に務めた.宵田橋下の堀割は最も重要な場所であり、各隊の主力をここに置いて火勢の南進を食い止め、西は駅通り京極筋、北は小田井神社付近に防火線を引き、水道の非常線を開ロし、円山川の河水を引用して数十条の滝を猛火に注ぎ始めた。夜に入って、火災の光景は更に凄惨の色を帯び、真っ赤な炎は四方を照らし白昼のようであった。
【豊岡復興史より】