城崎町史〔資料編〕石田氏の手記より
<港(港・気比〕地区>
俄然大音響と共に上下動の大振動起こり、職員一同これを意識する間もなく校舎、2階の中間が破壊、僅かに両端を残して倒れる控え所又同時に倒れる.児童の泣き叫ぶ声凄し。急を見て馳せ来る父兄の応援を得て、全職員必死に児童の救助を行う.4名控え所において圧死の悲惨を遂ぐ。

校庭に大亀裂を生じ、所々に噴水し、井戸の附近では音を発して洪水の如く流れる。午後3時頃瀬戸、津居山、気比、城崎など出火。思う問もなく津居山全焼(実際は、半数の145戸)城崎も一時全く火の海と化す、その内に行方不明であった2児童のを死体として発見した。 圧死者計6名
港村誌〔港西校日誌〕より
倒壊した津居山の住居
津居山の住居
母は、いつもの通り魚売りに行き、家にいたのは長年足の立た加い父と、今89才の老病で不自由なお祖母さんと私の3人であった。昼ご飯のはしを取り上げようとした時、あの恐ろしい地震が起こった。まだ一度も経験のない私には何が何やら分からない。幸い家は倒れていない。父に「火を消せ、早う、早う」と言われて、気を取り直し、急いで火を消した。第一にお祖母さんを背負い、一番安全な場所へつれ出し、それから引き返して父を背負って出し、やっと一息ついた。

辺りを見ると倒れた家でいっぱい。大声をあげて子を呼ぶ声、泣きながら母を尋ねる声は実にあわれであった。その頃早くもお寺の辺りから黒い煙がまい上がっていた。「あ、火事だ」何はおいても仏様をと家へかけ込んだが「あぶない、あぶない」と人々の呼ぶ声に2度までも飛び山し、3度目にやっと入ってお出し申した。この時「学校(港西尋常高等小学校)が全滅だ」との叫び声が聞こえて来た。私には弟と妹の二人が学校に行っていることで、大変心配した。
【港村誌〔丸谷氏の手記〕より】
○○は、6月になれば分娩されるという身重である。子どもは12才を頭に4人あり、地震当時、母親は病気のため病床にあった。常に看護に勤めて怠りなかった。丁度養蚕期なので、給桑していた折柄、大地も裂けんばかりの大揺れに驚いて、一且駆け出したが、奥に病める母親のことを思い、再び家に人り、母親を助け出そうとした瞬間、大音響を立て家は全壊した。「あっ」と叫んで母を外に放り出した瞬間、自分は平物の下敷きになった。苦しみの中にも「お母さんけがはありませんか。」と案じながらも「誰か助けて下さい。」と声を限りに叫んだ。答える者さえなかった。

その中、主人が帰宅して大いに驚き、救い人と共に助けようとしたのだが、その時分には炉から出た火が倒壊家屋内に移って、もうもうと煙を上げていたのである。もう少しで平物を引き切れぱ助かるというところで、火の勢いはますますさかんに襲ってくる。○○も救い人をも包んでしまった。○○は、とても助からないと覚悟したのか、苦しみながらも声を絞って「私はこれにてお別れします。皆早く逃れて下さい。お母さんや皆にけががあってはいけません。早く早く、お父さん子どもを頼みます。お別れです。」と、最後まで母を思い、子どもを思いつつ白分は此の世から地獄そのままの悲惨な死を遂げた。

母は、一命を助けられたが病と重傷とに悩み、その上に嫁を倒して全焼し、愛妻を焼死させ、且っ自ら重傷を負い、半狂乱の母をいたわり、泣く子をなだめつつ、焼け跡に立つ。