各地の様子
<城崎>
豊岡では、まず、激しい東西方向の揺れに始まっているが、震源に近い城崎や津居山方面では、強烈な上下動で、一瞬人々は跳ね飛ばされた。16秒間に、地面が4回鞭のように波打ったため、木造2階建て、3階建ての旅館や商店、民家では、一階部分を押しつぶされ、上階が残った所が多かった。

城崎では272人が死亡し、その71%が女性であった。宿の一階台所で昼食の準備中の女性が、家屋倒壊によって圧死ししたほか、柱に挟まれたり閉じ込められたまま、襲いかかった猛火の犠牲になったケースが大半。北但大震災の最大の犠牲者は城崎の女性達であった。軽傷者やちょっとした物の下敷きになった者は、無事な者に助けられ、危うく火から逃れたが、「両足を梁に挟まれて、その苦痛に耐えられず、ひと思いに殺してくれとせがまれ、できないのならば刃物を貸してくれと号泣するのを、っいに見捨てて立ち退いた。」という悲惨な話も珍しくなかった。
【神戸新聞社編「城崎物語」より】
焼け野原になった城崎町内の写真
焼け野原になった城崎町内
 

1階が倒壊した3階建て旅館
1階が倒壊した3階建て旅館

城崎町は消防のすべなく、24日未明、全く灰燼に帰し見渡す限り焼土と化した。従ってその死傷者も夥しい。特に翌朝同町四囲の山林中より避難者の遺体多数を発見するにいたった。(古くから地震の時はここへ逃げればよいと言われていた山があったそうであるが、この山に逃げた人々は、周りから火に囲まれ、全員焼死したと伝えられている。)

罹災者は焼け跡を彷徨して家族の遺体捜索を為す等、その惨状実に見るに堪えないものがあった。また発震の際は浴客の多数が入浴する時刻であり、6個所の浴場は皆大混乱を生じ、避難できたのはこの内2個所に過ぎず、その他は殆ど倒壊に遭い、浴客の焼死した者が甚だ多かった。(入浴中に死亡した人は、あたかも風船のように膨れあがっていたと伝えられている。)
【北但震災誌より】
船により津居山を出、城崎中の島の沖合にさしかかったころ、異様な音響と共に船が大きくショックをうけて上下に動揺し、川の中の鯉や鯔が一斉に高く跳ね上った。左岸を見ると楽々浦口に建築工事中の内川小学校が滅茶苦茶に倒壊している。右岸を見ればホテルは見えるが駅の建物はどうしたことか目にっかない。その奥は黄色の土煙が立ちこめて何も見えない。とにかく大変な事が起こったのであろうと、急いで船を駅裏に着けるころ、今津村の川沿いの倒壊家屋から助け出した負傷者であろう人を背負って城崎に向かって駆けつける人もある。

船を降り、駅の線路を越えるとホテルは建っているが駅の建物は無惨につぶれているし、駅前は倒れている家もあるが大方は傾いたまま建っている。学校も講堂本館は割合に完全であるが、東側の新校舎はよく倒れないと思うほど西側に傾斜している。校舎及びその南側の空き地には人が右往左往し、生徒は先生を取り巻いて蜘蛛の子を散らしたような騒ぎである。