三度目の高校生活

岡上 史歩

初めまして。

 僕は現在、青雲高校3年生の生徒です。実は、高校に通うのは3度目です。…こう言うと「何故?」と皆さんは思うでしょうね。

 健常者の時、最初の高校に通っていましたが、その頃時代は空前の超好景気である、バブル時代でした。そして父親が手広く事業をしていたので、バカで考えの浅はかだった僕は、別に高校なんて卒業しなくてもいいんだと思うようになりました。そして高校を、2年生でやめてしまいました。これが、1度目の高校生活を終えたいきさつです。確かにその時代には、それで良かったのかもしれません。しかしやがて景気にもかげりが見え始め、その後世の中にはバブル崩壊・不景気・倒産・リストラといった言葉だけが残ってしまいました。

 その直後です、僕が事故を起こし車椅子生活になったのは。その後は病院を転々としました。そしてリハビリ等の日常訓練を終え、玉津で自立生活に向けての訓練を始めました。そこで車椅子の操作を習いました。やがて少しずつ、僕は車椅子の素晴らしさを感じ始め、ある程度の体の自由と行動力が付きました。車椅子姿の自分にも自信が持てるようになっていきました。

 そんなある日、担当の職員が通信制である青雲高校への進学を勧めてくれ、入学の手続きまでしてくれました。しかし当事者である僕はその時、あまり乗り気ではなく、嫌々ながらの高校生活でした。しかもその後、父が急死してしまって通学が困難になり、勉強も訳がわからなくなってしまったので、結局退学してしまいました。

 今から思えば、月に2度の授業ぐらいならなんとか通学できたはずなのに。心の中は、まるで何らかの理由を探して、学校を辞めようとしている…そういう気持ちだったと思います。これが、僕にとって2度目の高校退学です。

 その後、伊丹の職業訓練学校に入学しパソコンを中心に1年間勉強しました。しかし、職業安定所や合同就職選考会などに行っても、就職はまったくありませんでした。なぜ就職が無かったのでしょうか?

 僕は右手足麻痺の車椅子常用者ですが、実は就職できなかった何よりの理由はそのことよりも、僕が高校中退で世間的には中卒である、と言うことでした。そこで初めて、「ああ〜やっぱり高校を卒業せんとな〜」と本気で思いました。社会では就職しようと思ったら最低、高校卒業の資格がいるという現実に直面したわけです。

 そうこうしているうちに昨年、神戸市の市営住宅に当選したので、これを機にもう一度、高校に行き今度こそ卒業しようと思いました。そして現在は、3年生として青雲高校に通っています。これで3度目の高校生活となります。

 青雲高校ではほとんどが自学自習で、レポートを提出しテストに合格することで単位をもらえますが、僕自身の提出したレポートは、ほとんどが再提出で返ってきます。非常につらいです。けれど再提出になって返ってきたレポートの通信欄には、先生から『がんばっていますね』などの、はげましの言葉があります。

 この言葉が、僕の大きなはげみになっています。それを読むと、『シンドイけど、がんばってレポート仕上げよう』と思います。誰でもそうだと思いますが、人が見ていてくれるならやる気が出てきますよね。それにレポートには、僕が1度目で分からなかった所を赤ペンで分かりやすく説明してくれています。ですから再提出は、ダイタイ1回で終わります。 通信制高校なので、先生方とのふれあいが普通の高校よりは少ないと思いますが、その分、レポート担当者の先生方の一言が大きく伝わってきます。

 今、まだまだ高校の勉強は分からないことだらけですが、知らないことを吸収していると実感できること、そして頑張ることでやがては高校卒業という資格が取れ、社会に帰る足がかりになるのではと思うと、日々の勉強が楽しく思えます。

 この頃、3年ほど前に、ある知りあいの人と交わした会話をよく思い出します。そのとき彼は僕に「岡上君、なぜ皆勉強を嫌がるのかな」と尋ねてきました。彼は続けて「自分の知らないことを吸収できるなんて、こんなに良いことはない」と言ったのです。今ではこの言葉の意味が良くわかる気がします。

 事故を起こしてから後の障害者人生は、多くのひとに勇気をもらったり、体が不自由な分助けてもらったりと、人の協力や優しさに対して甘えすぎていたなと思います。だから次は僕が「こんなに体が不自由でも、高校を卒業でき、就職もできるねんで」と言うことを、全国の通信制高校に通う、多くの人に伝えていきたいと思います。

ご静聴ありがとうございました。