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日英比較表現(「雪国」を素材にして)

谷口 雅一

1 はじめに

 日英比較というと、言語の問題という感じがしますが、日本語と英語が使われる場、すなわち、文化・習慣の問題、思考様式の差などが、使用言語に与える影響が大きいと思われます。日本はほぼ単一民族から成っており、使われる言語も、わずかな例外はあれ、日本語に統一されていると言えます。しかしながら、アメリカの場合を考えてみますと、アメリカは様々な人種・民族から成り立っており、地域によっては、英語以外の言語が日常的に用いられています。カリフォルニア州ロサンゼルス市議会で英語が公用語であることを認める決議が出されたのは、ほんの10年程前のことです。ですから、これら2つの国ででは、当然言葉の用いられ方が異なってきます。日本人同士なら、自分の本音を言わなくても、思いを汲み取ってもらうということは可能ですが、多民族から成り、それぞれ思考様式の異なる国民間では、自分の思いを言葉で表さなければ、相手に言いたいことが伝わるはずがありません。本稿では、川端康成原作、Seidenstecker 訳の「雪国」を取り上げ単に言葉の問題だけでなく、上で述べたようなことも考慮に入れながら、日本語と英語の違いを探ってみたいと思います。

2 視点について

 各言語における思考様式をグラフで表した研究がありますが、これによりますと、日本語の場合には、結論に至るまでぐるぐる渦を描きながら進んで行き、なかなか結論に至りません。それに対して、英語の場合には、A→B→Cのように矢印で示されるような形式で論理関係を明確にしながら、話が進められます。そのため、日本語では、1つの文がかなり長くなる傾向があります。日本語は1つの文の中でテーマが違っていても、視点の移動が可能であるため、次々にテーマを変えながら、文全体をどんどん長くすることができます。特に川端文学では、文の繋がりが大切にされるため、特にこの傾向が強いように思われます。しかしながら、英語では論理関係が大切にされるため、「〜した」その結果「〜した」と文の内容を整理しながら話が展開されることになります。英語では1つのテーマは1つの文しか構成できませんので、日本語の長文は英語ではいくつかの文に分けられることになります。

(1)もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

 It's that cold, is it, thought Shimamura.Low, barrack like buildings that might have been railway dormitories were scattered here and there up the frozen slope of the mountain.The white of snow felt away into the darkness some distance before it reached them.

(2)娘は島村とちょうど斜めに向かい合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。

 Since the girl was thus diagonally opposite him, Shimamura could as well have looked directly at her.When the two of them came on the train, however, something coolly piercing about her beauty startled Shimamura, and as he hastily lowered her eyes he had seen the man's ashen fingers clutching at the girl's. Somehow it seemed wrong to look at their way again.

 先日放送された、あるニュース番組で、ある外国人留学生が「日本語のニュースはとても聞き取りにくく、理解するのが難しい」と発言された。その発言を受けて、ある日本語学校の教官の方が、「日本語のニュースは文全体が、どちらかというと長くなる傾向にあり、しかもテーマが次々に変わっていきます。そのため耳に残るのは最初の部分と最後の部分だけということになります。しかもその最初と最後の部分に何の対応関係も見られないため、間の部分を想像することが出来ず、結局何が言われたのかが分からなくなるのです」と述べておられたのを思い出します。

 次に「話題における視点の移動」ということを考えながら、次の3つの例を見てみましょう。

(3)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 The train came out of the long tunnel into the snow country.

(4)国境の山を北から上って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄明かりはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、まだ古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落として来たかのように、もう峰と峰の重なりの間から暮色の立ちはだかる山峡を下っていくのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。

 The train climbedthe north slope of the Border Range into the long tunnel.On the far side it moved down a mountain valley.The color of the evening was descending from chasms between the peaks.The dim brightness of the winter afternoon seemed to have been sucked into the earth, and the battered old train had shed its bright shell in the tunnel.There was no snow on the south slope.

(5)娘は窓いっぱいに乗り出して遠くへ叫ぶように「駅長さあん。駅長さあん」明かりを下げてゆっくり雪を踏んで来た男は襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

 Leaning far out the window, the girl called to the station master as though he were a great distance away.The station master walked slowly over the snow, a lantern in hand.His face was buried to the nose in a muffler, and the flaps of his cap were turned down over his eyes.

(3)(4)の例は、それぞれ島村が雪国に行く時と帰る時を描写したものです。(3)例において、原作では視点が列車とともに移動しているのが分かります。それに対して、英訳では視点が雪国に固定されていて、そこに列車がやって来るという形式になっています。(4)例においても、原作では(3)例と同じことが言えます。そして英訳の方は、視点はthe Border Range を見通せるところに固定されています。次に(5)例において、原作では、前半部の視点は「娘」にあるのに対して、後半部の視点は「駅長」に移動しています。ところが英訳では、視点が列車の中の「娘」に固定されているため、後半部は、その娘から見た駅長の様子が描写されることになります。この例における留意点はあと2つあり、1つは「呼びかけ」の問題です。よく知られていることに、日本人留学生は現地で先生に対して teacher と呼びかけると言われますが、professor. doctor は呼びかけ語として用いられるのに対して、「先生」「駅長」の英訳は英語では呼びかけ語として機能しません。station master が呼びかけ語としての機能を果たせないため、英訳の方では間接話法が用いられることになるのです。今1つは、原作の「遠くへよびかけるかのように」の部分で、これをもし as though she were calling a great distance away と訳すと娘が駅長の位置とは関係なく、どこか他の方向に向かって叫んでいることになってしまいます。

 また視点という観点から、次のような日英の違いが出てきます。英語においては、地の文で過去のことが述べられる時には、全て視線が過去に統一されます。しかしながら日本語では過去の文中に突然、現在形が出てくることがあります。

(6)男は窓のほうを枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげていた。三等車である。島村の真横でなく、一つ前の向側の座席だったから、横寝をしている男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった。

 The man lay with his head pillowed at the window and his legs bent so that his feet were on the seat facing, beside the girl.It was a third-class coach. The pair were not directly opposite Shimamura but rather one seat forward, and the man's head showed in the window-mirror only as far as the ear.

(7)女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかとかえってうしろめたいはどだった。

 Her voice carried such a note of immediate feeling that he felt a little guilty, as though he had deceived her too easily.

 日本語では過去の文中でも現在形が現れることはよくあります。これは勿論、日本語では視点を過去に統一しなくてもよいので可能になるのですが、この効果は、作者が読者の視点を自分の方に引き込めるということです。作者が自分の感情の流れるままに書くことによって、共感的な表現が可能になります。これをもし過去形で統一してしまったら、作者の感情が読者に伝わらず切れてしまうことになります。

  次に、作者が読者の視点を自分の方に引き込むということに関して、日本語では、人名が繰り返し用いられる。ということがあげられます。英語では普通、前出の人名は人称代名詞で受けるのが一般的です。例をあげますと、

(8)いつのまに寄って来たのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。

 Komako had come up to him, he did not know when.She took his hand.He looked around at her, but said nothing.

 しかし、(8)例の原作は、作家が特殊な効果をねらって意図的に用いたもので、一般的には、英語では人称代名詞が用いられるような場合でも、日本語では人称代名詞が英語に対応して用いられないケースがよく見受けられます。

(9)とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立って黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、かえって泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。

 He started back as he saw the long skirts---had she finally become a geisha?She did not come toward him, she did not bend in the slightest movement of recognition.From the distance he caught something intent and serious in the still form.He hurried up to her, but they said nothing even when he was beside her.She started to smile through the thick, white geisha's powder.Instead she melted into tears, and the two of them walked off silently toward his room.

 上の例において、英訳では人称代名詞は合計16回使用されていますが、それに対応する代名詞は2回しか使われていません。人称代名詞に関しては、数の上からだけ考えると日本語のほうが、はるかに発達しているように思われます。例えば英語で I を指すものを考えてみますと、日本語には「わたし、わたくし、僕、俺、うち、小生、我輩」この他にもまだあるかもしれませんが、いちばん一般的だと思われる、「わたし」「僕」で考えてみましても、日常生活でこの言葉が使われる場面というのは、案外ないと言ったほうが良いのではないかと思われます。英語を日本語に訳す時でも、代名詞を訳してかえって日本語が不自然になるということは、よくあることです。先日「大統領の陰謀」というテレビ映画を見ていたときのこと、ワシントンポストの記者がある政府関係の女性の家に聞き込みに行った時、その女性が "They'll see you." と言った。その日本語訳では they も you も当然の事ながら訳されておらず「人に見られるわ」となっていました。もし直訳したとしたら、日本語としてはかえって奇妙になってしまいます。そしてこれは、3で述べる「する言語」と「なる言語」の違いでもあります。

 次に、日本人の思考様式は渦を巻きながら、なかなか結論に至らないということから、日本語では漠然とした言い方が好まれますが、英語の場合には、曖昧さを残さない明確な言い方が使われます。

(10)「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです」悲しいほど美しい声であった。

 "Is my brother here now?"Yoko looked out over the snow-covered platform."See that he behaves himself."It was such a beautiful voice that it struck one as sad.

 次の例は、島村が旅館の部屋で、按摩と話をしているところです。どこかから三味線の音が聞こえてきて、どの芸者が三味線を弾いているのかを、按摩が推測するところです。

(11)・・・と耳を傾けて、「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分かりますね」「上手な人もいるかい」「駒ちゃんという子は、年は若いけれど、このごろ達者になりましたねえ」「ふうん」「旦那さん、ご存じなんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから」

 She listened for a time."Fumi at the Izutsuya, maybe.The best ones and the worst are the easiest to tell.""Are there good ones?""Komako is very good.She's young, but she's improved a great deal lately.""Really?""You know her, don't you?I say she's good, but you have to remember that our standards here in the mountains are not very high."

(10)例における下線部を比較するとニュアンスがかなり異なっていることが分かります。原作の方は、何をどうするのかに関して、具体的には書かれておりません。これは日本語的な発想で「宜しくお願いします」のような日本語は、英語にはならないのです。

(11)例においても、原作の下線部は、非常に曖昧な表現になっていますが、英語では、その意味を汲み取った訳になっていることが分かります。

 また日本語では、文脈から推測できることは書かないでおくことができますが、英語では、具体的に書かないと意味を読者に理解してもらえません。

(12)島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上がって行ってしまうと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。

 He lapsed into a glum silence.No doubt thinking to be tactful and adroit, the woman stood up and left the room, and the conversation became still heavier.Even so, he managed to pass perhaps an hour with the geisha. Looking for a pretext to be rid of her, he remembered that he had had money telegraphed from Tokyo.He had to go to the post office before it closed, he said, and the two of them left the room.

(13)「責任てなんだ」「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ」島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この山の村にはあるかも知れないと思った。

 "Full responsibility?""If there should happen to be a child, or some sort of disease."Shimamura smiled wryly at the foolishness of his question. In a mountain village, though, the arrangements between a geisha and her keeper might indeed still be so easygoing....

 日本語の場合には漠然としていても意味が読者に伝わるということは、日本語では視点を1つに絞らなくても良い。ということにつながります。また、日本語では、ある情景を描写するのに焦点を絞らずに、1枚の絵画を見るように、視覚的・感覚的な表現が可能ですが、英語では、それを1つ1つ説明していかなければなりません。次の2つの例は、原作は視覚的な文になっています。

(14)女は瞼を落として黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分かりよくうなずく習わしが女の身にしみついているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かく艶めくと島村が眺めているうちに、女の顔はほんのすこし左右に揺れて、また薄赤らんだ。

 The woman was silent, her eyes on the floor.Shimamura had come to a point where he knew he was only parading his masculine shamelessness and yet it seemed likely enough that the woman was familiar with the failing and need not be shocked by it.He looked at her.Perhaps it was the rich lashes of the downcast eyes that made her face seem warm and sensuous.She shook her head very slightly, and again a faint blush spread over her face.

(15)ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。

 When he was pleasantly tired, he turned sharply around and, tucking the skirts of his kimono into his obi, ran headlong back down the slope.Two yellow butterflies flew up at his feet.The butterflies, weaving in and out, climbed higher than the line of the order Range, their yellow turning to white in the distance.

 次の例では原作は感覚的な文になっています。

(16)蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。

 For a moment he was taken with the fancy that the light must pass through Komako, living in the silkworm's room, as it passed through the translucent silkworms.

3 「する言語」と「なる言語」

 「する言語」と「なる言語」の違いは、狩猟民族と農耕民族の違いと言えます。狩猟民族の場合には常に自分の方から動いて、獲物を捕らえる必要があります。自分が何かを行わなければ、食べ物にありつけません。それに対して農耕民族の場合には、種を蒔いた後は、ただひたすら待ちの姿勢になります。必要なときに太陽が照ってくれるか、雨が十分降ってくれるか、そのようなことに対して人間には成す術がありません。このようなことが言葉にも反映されます。英語では行為者があるときには、それを主語におき、その行為者が何をするかが書かれますが、日本語では必ずしもこのような書き方でないことがあります。

(17)夜のあけないうちに帰らねばならないと行って、「まだ暗いわね。この辺の人は早起きなの」と、幾度も立ち上がって窓をあけてみた。「まだ人の顔はみえませんわね。今朝は雨だから、誰も田に出ないから」

 She had to leave before daylight, she said."It's still dark.But people here get up early."Time after time she got up to look out the window."They won't be able to see my face yet.And it's raining.No one will be going out to the fields this morning."

(18)ところがそれから半時間ばかり後に、思いがけなく葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにか起こるかと自分にかかわりがあるかのように振り返ったが、プラット・フォウムの寒さに触れると、急に汽車のなかの非礼が恥ずかしくなって、後も見ずに機関車の前を渡った。

 He was startled, when a half-hour later Yoko and the man got off the train at the same station as he.He looked around as though he were about to be drawn into something, but the cold air on the platform made him suddenly ashamed of his rudeness on the train.He crossed the tracks in front of the locomotive without looking back again.

(19)あの時は---雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入ったころだった。

 "Then": the danger of avalanches was over, and the season for climbing mountains in the spring green had come.

 次に、英語は上で述べたように「なる」型の言語であるため、(17)例にも出ましたように、SVO構文を中心にして、行為が1つずつまとめられていきます。

(20)島村が葉子を長い間盗み見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実的な力にとらえられていたからだったろう。

 It did not occur to Shimamura that it was improper to stare at the girl so long and stealthily.That too was no doubt because he was taken by the unreal, otherworldly power of his mirror in the evening landscape.

(21)遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡なの山の姿がなおさら平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、かえってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。

 The mountain sky still carried traces of evening red.Individual shapes were clear far into the distance, but the monotonous mountain landscape, undistinguished for mile after mile, seemed all the more undistinguished for having lost its last traces of color.There was nothing in it to catch the eye, and it seemed to flow along in a wide, unformed emotion.

 「する」言語と、SVO構文の間には明確な一線を引くことは出来ませんが、これは生活様式(狩猟生活)と言語が同時進行的に発達したからだと思われます。そしてまた、SVO構文の発達は、英語における名詞構文の発達につながっていきます。

(22)こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島村の方を振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など目に止まらなかっただろう。

 There was no way for Yoko to know that she was being stared at.Her attention was concentrated on the sick man, and even had she looked towardShimamura, she would probably not have seen her reflection, and she would have paid no attention to the man looking out the window.

(23)師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに出ても、咎め立てる芸者がないのだろう。

 Perhaps because she lived with the music teacher, there seemed to be no resentment at the fact that a woman not yet licensed as a geisha was now and then helping at parties.

4 日本語の非論理性と英語の論理性

 日本語は非論理的な言語であり、英語は論理的な言語である。ということがしばしば言われます。鈴木孝夫氏の「ことばと文化」の中には、ある外国人言語学者の日本語観が述べられていますが、それによると「自分の夫をパパと呼び、自分の娘をママと呼べる日本語は気違いの言語だ」と書かれています。しかしながら、これは単に基準の違いであって、このようなことから日本語が非論理的だと断定はできないと思われます。勿論、実際には日本語での論理的な思考は可能ですから、日本語のどのような部分が、外国人の日本語学習者にとって、非論理的であると言われるのかを考えてみますと、これは、日本語と言うより、日本人の持つ曖昧さに原因があると思われます。考えてみますと、日本人は自分の考えを全て言葉にして言ってしまわなくても、聞き手の方である程度推測してくれるだろうという暗黙の了解のようなものがお互いの心の中にあります。これは書き言葉にも当てはまります。日本語では、文脈から明らかに推測できることは書く必要がない、または漠然と書いても、意味が通じるのですが、外国人の日本語学習者にとって、そのような部分が不明解で、日本語は非論理的な言語だと考えられるのだと思われます。

(24)汽車のなかもさほど明るくはなし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。

 The light inside the train was not particularly strong, and the reflection was not as clear as it would have been in a mirror.

(25)その時、街道から停車場へ折れる道をあわただしく駆けて来るのは葉子の山袴だった。

 A figure in "mountain trousers" came running up the wide road from the main highway into the station plaza.It was Yoko.

(26)・・・島村はためらっていると女は素早く気づいて撥ね返すように、「零時の上りだわ」ちょうどその時聞こえた汽笛に立ち上がって、重いきり乱暴に紙障子とガラス戸をあげ、手摺へ体を投げつけざま窓に腰かけた。

 "The midnight for Tokyo."The woman seemed to sense his hesitation, and she spoke as if to push it away.At the sound of the train whistle she stood up.Roughly throwing open a paper-paneled door and the window behind it, she sat down on the sill with her body thrown back against the railing.

(24)例は、島村が汽車の窓ガラスを鏡がわりに使って、葉子を見ているという場面ですが、原作の下線部を文字通りに解釈すると、ガラスの反射がないわけですから、葉子をを見ることが出来るはずはありません。また(25)例において、「山袴が駆けて来る」はずはありませんし、(26)例においても「窓に腰かけた」という表現も、窓そのものに腰をかけることが出来るはずが有り得ませんので、このような部分を取り上げて、日本語は非論理的な言語であると言われれば、それはそれでしかたのないことであると思われます。また「雪国」には次の例のように、日本人にとっても難解な文章が出てきます。この場合には英訳を読んだほうが意味が良く分かるといえます。

 (27)(駒子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にもう彼女の音の冴えは分ったが、火燵の上に嵩張った風呂敷包を開いてみると、普通の稽古本の外に、杵屋弥七の文化三味線譜が二十冊ばかりはいっていたので、島村は意外そうに手に取って、)「こんなもので稽古したの?」「だって、ここにはお師匠さんがないんですもの。しかたがないわ」「うちにいるじゃないか」「中風ですわ」「中風だって、口で」「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけれど、三味線は耳がうるさくなるばっかり」

 "You practice from these?""I have to.There's no one here who can teach me.""What about the woman you live with?""She's paralyzed.""If she can't talk.She can still use her left hand to correct mistakes in dancing, but it only annoys her to have to listen to the samisen and not be able to do anything about it."

(27)例は何人かの国語の先生に見てもらったのですが、英訳のような意味には解釈してもらえませんでした。しかし、サイデンステッカーは川端康成本人に分からないところを確認しながら英訳を進めたと聞いておりますので、この部分に関しては、彼の英訳が正しいと思われます。

5 文化・習慣の違い

 はじめに、次の文を比べてみましょう。

(28)「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。それから温かく潤んだ目を開くと、「ほんとうに明日帰りなさいね」と、静かに言って、髪の毛を拾った。

 "It's wrong of you to say such things.Get up.Get up, I tell you."The words poured out deliriously, and she fell down beside him, quite forgetting in her derangement the physical difficulty she had spoken of earlier. Some time later, she opened warm, moist eyes.She picked up the hair ornament that had fallen to the floor.

 この例において、原作と英訳の下線部は対応していません。原作では「髪の毛」ですが英訳では「髪飾り」となっています。これは、「畳文化」と「床文化」の違いであると思われます。日本では普通部屋の中に、髪の毛が落ちていると女性ならたいてい汚いと思って、それを拾うのが習慣的です。それに対して、欧米では靴を履いたまま家の中に入りますので、床が汚れていても後でまとめて掃除してしまうのが普通であると思われます。ですから、床に髪の毛が1本落ちているからといって、それを拾ってしまうと、逆に異常な行動をしていると思われるため、サイデンステッカーは敢えて「髪飾り」と意訳をしたと思われます。

(29)またたびの実の漬物やなめこの罐詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、---

 Even when he had finished buying presents to take back to Tokyo, he had some twenty minutes to kill.

 この例では、日本の文化には存在するが、欧米の文化には存在しないものが扱われています。このような物を敢えて表現しても意味をなしません。最後に、「雪国」では、年齢を表すとき、数字が異なっているところと、異なっていないところがあることに気づきました。

(30)十三四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。

 A girl of twelve or thirteen stood knitting apart from the rest, her back against a stone wall.

(31)十九だと言った。

 She said she was nineteen.

 これは、昔の日本では(おそらく昭和20年代まで)子供の年を数えるのに「数え年」が用いられていたからです。

6 結びにかえて

 Strain 教授に指導を受けていた時、筆者が "We find this kind of examples very often." と、あるレポートに書いたところ教授は "Where do you find these examples?" と言われました。その時には、ある小説が話題として上がっていましたので、分かり切っていると思って書かなかったのですが、"In this novel." と答えると "Then you have to write it here." 指摘して下さいました。その時、英語ではこんなに分かり切ったことも書かなければならないのかと思いましたが、「雪国」の原作と英訳を見比べている間に、英語の論理性というものを改めて思い知らされました。そしてまた、日本語と英語の発想の違いにも大いに興味を引かれるものがありました。このレポートでは、文化的な違いについてあまり書く余裕がありませんでしたが、今後この方面の研究もしてみたいと思います。

 参考文献

 鈴木孝夫(1987):『ことばと文化』, 岩波書店.

 田崎勉・矢口正巳・埋橋勇三・木下裕昭(1993):『入門英語学』, 文化書房博文社.