2015・師走 その

吉野弘『くらしとことば』 / 『詩の一歩手前で』(河出文庫)

《夕焼け》

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰を下ろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
年寄りに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることはと言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるんだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

 ※どこかで読んだことがありませんか。その吉野さんのエッセイ集です。(館長)