「新井用水」の巻

新井用水 
 江戸時代の初めは、加古川下流の平野部でしか農を営むことができませんでした。平野部西のほんの少し高くなった所でさえ、水を引くことは容易ではありません。ため池や、台地縁端に湧き出る湧水に頼るしかありませんでした。

 誰もが途方にくれるしかなかった用水事情を、打破しようと試みた人物がいます。新井用水の生みの親、今里傳兵衛(いまざとでんべえ)です。
 新井用水について記されている「播州賀古新疏水道記」や「新井水道記」によると、「1654年の夏、2ヶ月にわたって雨が降らず、稲は枯れ、飢え死にするものが続出し・・・」(意訳)とあります。一度干ばつが起こると、見るも無残な有様だったようです。

 一方、五ヶ井用水から取水していた平野部では、たわわに稲が実っていました。
 五ヶ井の受益地のすぐ西隣、野口台地南西部に住んでいた今里傳兵衛は、たわわに実った稲を見て「なんとかここにも水をひくことができないか」と、強く心に思ったのでしょう。この干ばつを機に、新井用水の築造の計画を立て始めます。

 台地への引水は、綿密な調査と、正確な測量技術を要しました。どの位置に堰を築けば、台地に水を引き入れることができるのか。今里は、台地と加古川の間をなんども歩いて調べました。そして、同年12月、それまでにまとめた計画を、近くに住んでいた庄屋達に報告します。今里の立てた計画とは、五ヶ井堰の場所から加古川の水を分水して、台地まで引き入れるというものでした。熱意は庄屋達に伝わり、いよいよ藩へ請願します。

 姫路藩主榊原忠次(さかきばらただつぐ)は、綿密に組み立てられたこの計画を「一郡永久の計」と誉め、すぐに工事の開始を言い渡します。
 緻密な調査であきらかとなった等高線にそって、正確に水路が引かれていきます。また、ほとんどこう配の無いなかで、水位が下がらぬように、水路の幅を徐々に狭くして水位を保つ工夫なども取り入れられました。

 そして1656年、1年3ヶ月という短い期間で新井用水が完成しました。この工事に携わった人夫は延べ16万4千人。約14kmの水路によって、約480haの農地に加古川の水が配られるようになりました。
 今里の新井用水は、江戸時代に始まる台地への進出の先鞭をつけたといっても過言ではありません。
曇川の下を通るサイフォン

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