「五ヶ井用水」の巻

五ヶ井用水 
 五ヶ井堰は、加古川下流東岸部(加古川市と加古郡播磨町におよぶ1265.7ヘクタール)のかんがい用水を取水するために築造された井堰で、加古庄、岸南の庄、長田の庄、今福の庄、北条郷の4庄1郷をもって五ヶ井と称し、加古川大堰ができるまで五ヶ井土地改良区によって管理されていました。
 
太子岩
 飛鳥時代に加古川市の中心部、加古川左岸下流域一帯には、聖徳太子の講法華経料田(こうほけきょうりょうでん)が設けられた。料田の水利を進めるために、聖徳太子は落差を考えて、この太子岩を基準と定め、その上流に井堰を設け、鶴林寺三重の塔を目標に下流へ井溝を掘り進めた。これによって多くの田畑が養われ、豊かな五箇の郷が形成されることになった。この水利系を五箇井と呼び、後にこの五箇井を利用して播磨町の新井へも引かれた。
 
 
 593年、聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、冠位十二階や十七条憲法を制定するなど、政治に力を注いでいました。また、政治の分野だけにとどまらず、大規模な土木工事も各所で行なっています。

 江戸時代に書かれた書物には、607年に推古天皇から加古川下流の土地100町を貰い受け、その土地を灌漑(かんがい)するために堰を作ったということが記されています。その堰とは、現在加古川大堰のあるあたりに、数年前まで現役で稼動していた「五ヶ井」です。この堰は歴史が古く、約1400年間前から、下流地域を潤し続けてきました。

 聖徳太子が築造したときには、地区の名を取って「平松の井」と呼ばれていたようです。五ヶ井という名は、室町時代、堰から取り入れられた水が、北条之郷、加古之庄、今福庄、長田庄、岸南庄の5地区に配られるようになったことから付けられたといわれています。この頃には、受益面積が700haにも及んでいたと伝えられています。
 


稲荷橋


2号橋
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