古文書を読む―織田信長朱印状―

織田信長朱印状について

当館蔵 織田信長朱印状

年欠4月13日 織田信長朱印状、当館蔵
年欠4月13日 織田信長朱印状、当館蔵

 この文書は、織田信長(おだのぶなが)が出した文書(もんじょ)です。
 どうして信長の文書とわかるのでしょうか?日付の下の朱色の印章に注目してみましょう。

信長朱印「天下布武」
信長朱印「天下布武」

 この印章の文字は、篆書(てんしょ)という書体でなかなか読みにくいのですが、「天下布武(てんかふぶ)」と記されています。これが、信長が発行した文書に押される印章なのです。ここから、この文書は信長が出した文書であることがわかります。

 では、この文書はいつごろのものなのでしょうか?残念ながらこの文書には「4月13日」という日付しか書かれていないので、内容から推定していく必要があります。

 まず冒頭に、「赤井五郎・荻野悪右衛門尉」と書かれていて、彼らのことが話題になっています。彼らは、赤井五郎忠家(あかいごろうただいえ)、荻野悪右衛門尉直正(おぎのあくえもんのじょうなおまさ)という、丹波国氷上郡(たんばのくにひかみぐん=兵庫県丹波市)に本拠を置く領主でした。赤井・荻野氏は、天正7(1579)年8月に織田信長の命を受けて丹波攻略を進めていた明智光秀(あけちみつひで)によって滅ぼされた一族です。

 また、後半には、「惟任(これとう)と相談し、いよいよ忠節専一(せんいつ)に候也」とあります。「惟任と相談して、さらに忠節をつくしてください」という意味ですが、この「惟任」というのが、信長の部将だった明智光秀のことを指しています。天正3(1575)年、光秀は信長から命じられて、公式の場では「惟任」という古代風の姓を名乗るようになっていました。また、光秀はこの年から信長の命によって丹波攻略を進めていました。こうした事実から、ひとまずこの文書は信長が明智光秀を派遣して丹波の平定を進めていた天正3〜7(1575〜79)年のものと判断できるのです。

 なお、この文書の年代はもっと絞り込むことができますが、これについてはテーマ解説「この古文書からわかること」で述べることにします。

戦国の丹波

 信長が京都に攻め上る前、丹波国は数多くの国衆たちが割拠する様相を呈していました。とくに、現在の兵庫県域に当たる多紀郡(たきぐん=篠山市)、氷上郡には、それぞれ波多野(はたの)氏、赤井・荻野氏といった有力な国衆がいました。

 波多野氏は、戦国時代の初めごろ、守護細川(ほそかわ)氏の配下として丹波に入ったようで、多紀郡の八上(やかみ=篠山市)を拠点に勢力を強めていきました。京都の細川氏が家督争いで分裂状態に陥った中で勢力を広げ、1520年代後半には、波多野稙通(たねみち)と柳本賢治(やなぎもとたかはる)の兄弟が畿内の政権を左右するほどの力を持った時期もありました。合戦や政変が相次ぐ中で、中央での勢力はすぐに縮小しましたが、その後もしばらくの間、1540年代までは秀忠(ひでただ)、元秀(もとひで)が丹波の事実上の支配者と言える地位を維持し続けていました。

 しかし1540年代末になって細川氏が衰退し、代わって三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が畿内の支配者になっていくと、波多野元秀はたびたび三好方の攻撃を受けるようになります。永禄3(1560)年ごろには一旦本拠の八上城を三好氏に明け渡す状況に陥ったこともありました。しかし、三好長慶が死去した後、その混乱に乗じて再び勢力を強めて永禄9(1566)年に八上城を取り返し、信長が京都に進出したころには再び多紀郡の支配者に返り咲いていました。

八上城跡
八上城跡
後屋城跡
後屋城跡
黒井城跡
黒井城跡

 一方、赤井・荻野氏は、氷上郡を中心に勢力を広げ、赤井家から荻野家に養子入りした直正がこの両家を率いていたころには、丹波のうちでも奥郡(おくぐん)と呼ばれた氷上・天田(あまだ=京都府福知山市など)・何鹿(いかるが=京都府綾部市)の三郡に影響力を強め、一時は丹後(たんご=京都府北部)、但馬(たじま=兵庫県北部)方面にも進出していました。

 赤井氏は、氷上郡後屋城(ごやじょう=丹波市氷上町)を本拠とした領主で、その前身については伝説的なことがら以外は詳しくわかっていません。戦国時代のはじめ、忠家(ただいえ)の代のころから氷上郡内で勢力を強め、丹波奥郡一帯に影響力を及ぼすようになっていきました。直正はこの忠家の子息時家(ときいえ)の次男で、少年のころ近隣の豪族荻野(おぎの)家に養子入りしたため、荻野姓を名乗っています。

 直正は、16世紀の中ごろ、黒井城の城主だった荻野秋清(あききよ)を殺害し、黒井城を乗っ取ったとされています。ちょうどこのころは三好氏の勢力が丹波でも強まってきた時期でしたが、直正は兄で赤井家当主だった家清(いえきよ)とともにこれと対決、やがて家清が死去すると、幼少だった甥の忠家(先述の直正祖父忠家とは同名の別人)を支えて、赤井・荻野一族を実質的に率いる地位につきました。

 やがて丹波にも勢力を広げていた三好長慶が死去すると、直正は丹波の三好方の中心となっていた内藤宗勝(ないとうむねかつ)と戦います。永禄8(1565)年、直正は奥郡まで攻め込んだ宗勝を迎え撃って討ち取りました。この勝利によって直正は、丹波奥郡国衆の盟主的な存在に上り詰めたのです。

 しかし、このころ時代は急速に動いていました。永禄11(1568)年、尾張(おわり=愛知県西部)から美濃(みの=岐阜県南部)を支配下に収めた織田信長が、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に進出してきました。この段階では、丹波の国衆たちはおおむね室町幕府の15代将軍となった義昭に臣従しました。しかし、その後信長と義昭が不仲になるなかで、丹波の国衆の中には義昭に従って、信長から離れるものも現れてきたのです。

 義昭方である姿勢を明確に示した国衆として、丹波では船井(ふない)郡八木(やぎ)城(南丹市園部町)の内藤氏、桑田(くわた)郡宇津(うつ)城(京都市右京区)の宇津氏などがあり、奥郡の直正もそうした国衆の一人でした。

 その一方、元亀2(1571)年ごろから天正3(1575)年にかけて、直正は但馬の山名祐豊(やまなすけとよ)と戦闘状態に入っていました。元亀2年には山名勢が氷上郡の山垣城(やまがいじょう=丹波市青垣町)を攻撃していましたが、天正3年になると逆に直正が但馬の竹田城(朝来市)まで進出していました。山名祐豊はこのころ中国地方に勢力を広げていた毛利氏と織田氏とのはざまで揺れ動いていましたが、この事態を受けて祐豊は信長に救援を要請、これに応えるとの大義名分をも得て、明智光秀が丹波に入ってくるのです。

明智光秀の丹波攻め

織田信長像、当館蔵
織田信長像、当館蔵

 天正3(1575)年になると、信長の目も丹波に向きはじめていました。この年5月、信長は甲斐(かい=山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)を長篠(ながしの=愛知県新城市)の合戦で打ち破って東方の脅威を取り除きます。ついで秋、越前(えちぜん=福井県)一向一揆(いっこういっき)の平定も一段落しようとしていた9月2日、越前出陣中の明智光秀にあらためて丹波の攻略を命じたのです。

 織田勢出陣の報を聞いた直正はただちに但馬竹田城から撤退、黒井城を中心に迎え撃とうとします。このころ直正は、遠く甲信の武田氏や中国の毛利氏、さらに大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)とも連絡をとりあいながら、信長との対決姿勢を見せていました。いわゆる「第二次信長包囲網」の一環です。近年の研究では、この時期の信長包囲網の形成についても、京都を追われて毛利氏に保護されていた足利義昭の諸大名への働きかけが重視されています。

 さて、光秀が丹波に入ると、丹波の国衆たちのなかには、多紀郡八上城の波多野秀治(ひではる)を含めて、光秀に従うものも多く現れました。光秀は、船井郡宍人(ふないぐんししうど=南丹市園部町)の小畠(おばた)氏を中心に、丹波国衆への呼びかけを進めていったようです。こうして足がかりを築いた光秀は、小畠氏ら味方となった国衆らを率いて奥郡へ出陣、11月には直正が籠もる黒井城(丹波市春日町)の包囲を完了しました。光秀は黒井城の周囲に陣地となる付城(つけじろ)を多数築き、戦は持久戦になるかに見えました。

 ところが、ここで光秀にとっては痛恨の出来事がおこりました。翌天正4(1576)年1月、黒井城を包囲していた光秀勢の中から、八上城の波多野秀治が荻野方に寝返り、光秀勢を攻撃したのです。それまで光秀に従っていた丹波の国衆も多くが荻野方に転じたようで、光秀は一気に劣勢に陥り、ほうほうの体で本拠の近江国坂本(おうみのくにさかもと=滋賀県大津市)に逃げ帰ることになりました。直正は、本拠近くまで攻め込んだ敵を引き付けて打ち破ったことになりますので、こうした直正の戦い方は、後の世では「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれました。

黒井城跡 (山頂の主郭部を中心に山全体に枝城が配置されていた)
黒井城跡
(山頂の主郭部を中心に山全体に枝城が配置されていた)
八上城跡から見た篠山盆地 (明智勢は八上城の周囲に付城を多数築いて厳重に包囲した)
八上城跡から見た篠山盆地
(明智勢は八上城の周囲に付城を多数築いて厳重に包囲した)

 その後光秀は信長の命で大坂の石山本願寺攻撃など近畿各地の合戦に動員されることが続いたため、しばらく丹波攻撃は休止状態になります。天正4年、5年と、幾度か光秀が奥郡や多紀郡へ進攻しようとの姿勢を見せたこともありましたが、いずれも一時的なものでした。ただ、天正5年初めから、光秀は亀岡(京都府亀岡市)に新たな城(亀山城)を築き、丹波攻略の拠点としていきました。

 このように丹波ではしばらく大きな動きのない状態が続きましたが、そうした中、天正6(1578)年3月前半、直正が死去してしまいました。直正の死によって、丹波の反信長勢力は重要な核を失ったことになります。ちょうどこの直前から信長は光秀らにあらためて多紀郡と奥郡への出陣の準備を命じており、光秀はこれをうけて再び本格的な丹波攻撃に出陣、まず、波多野氏の八上城を包囲しました。

 光秀は八上城の周囲に付城と呼ばれる陣城を多数築き、厳しく包囲して兵糧攻めの作戦をとりました。やがて補給路を断たれた城内は、大変な飢餓状態に陥ったとされています。天正7(1579)年5月末、ついに城内から内応者が現れたようで、波多野秀治兄弟は光秀に降伏、八上城は陥落しました。波多野兄弟は安土に送られ、6月上旬に処刑されました。

 ついで光秀は7月に桑田郡の宇津氏を追放、さらに黒井城下に進撃し、二度目の黒井城攻撃となります。赤井・荻野氏は直正の死後、甥の赤井忠家が率いていましたが、8月になって忠家は黒井城から逃走、こうして丹波はようやく信長によって治められることになったのです。

 この文書は、こうした信長・光秀の丹波攻めの一コマを示す文書なのです。

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