用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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あ行

『太平記』(たいへいき)

南北朝内乱を描いた軍記物。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による倒幕計画から始まり、幼い足利義満(あしかがよしみつ)の補佐役に細川頼之(ほそかわよりゆき)が就任するころまでを描く。

南北朝時代後半までに、室町幕府による校閲を含めて、何段階かの書き継ぎ、改訂を経て成立していったと見られている。作者は「小嶋法師(こじまほうし)」とする史料があるが、その実像についてはよくわからず、また何段階かの書き継ぎがあったとすれば複数の作者を想定する必要があるが、その他の作者についてもよくわかっていない。

大物浦(だいもつうら)

現在の尼崎市街地東部。淀川へとつながる神崎川の河口に開けた都市。物流の大動脈であった瀬戸内海と都とを結ぶ、淀川―神崎川水運との結節点として、平安時代後期以来繁栄した。平安時代には、大物や神崎(現在の尼崎市西川付近)など神崎川河口部に展開していたいくつかの港を総称して「河尻(かわじり)」とも呼ばれていた。その後、河口部の土砂堆積によって陸地が少しずつ沖合に前進していった結果、鎌倉後期ごろからは、大物から見て西南の地域を指す地名である尼崎が、この周辺を代表する地名として定着していった。

平清盛(たいらのきよもり)

1118―1181。伊勢平氏の棟梁である平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として生まれる。実は白河法皇(しらかわほうおう)の落胤(らくいん)という説も有力。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)でいずれも勝利した側につき、その後の中央政界で大きな力をふるうようになる。仁安2(1167)年に太政大臣(だじょうだいじん)となるが、3ヶ月で辞任し、長男の重盛(しげもり)を後継者とする。翌年に病のために出家し、その後は福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の別荘に居住して日宋貿易を進めるとともに、必要に応じて上京しては時の政局を左右し続けた。治承3(1179)年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉して朝廷の実権を握り、翌年には遷都を目指して福原へ安徳天皇(あんとくてんのう)を移す。しかし、全国で反平氏の挙兵が続く中、天皇を京都へ戻し、治承5(1181)年閏2月に没した。

平重盛(たいらのしげもり)

1138―1179。平清盛(たいらのきよもり)の長男。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)では父に従って参戦。その後は清盛の後継者として順調に官位を昇進させ、仁安2(1167)年、父清盛が太政大臣を辞任するにあたって、朝廷から重盛に国家的軍事・警察権が与えられた。翌年から清盛が福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の山荘に移ると、重盛が都において平家を代表するようになる。

しかし、安元3(1177)年、妻の兄であり、また長男維盛(これもり)の妻の父でもある藤原成親(ふじわらのなりちか)らによる平家打倒の陰謀が発覚する事件(鹿ヶ谷の陰謀、ししがたにのいんぼう)が起き、政治的に大きな打撃を受ける。その後、目立った活躍を見せないまま、治承3(1179)年7月に没した。

尊良親王(たかよししんのう)

?―1337。後醍醐天皇の第一皇子。元弘元(1331)年に父天皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、それにしたがって笠置山に立てこもり、ついで楠木正成の河内の居城へ移った。しかし、10月に捕らえられて土佐国幡多(とさのくにはた=現在の高知県中村市付近)へ流罪(るざい)となった。

建武の新政が始まると帰京したが、建武3(1336)年に反旗を翻した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都を攻め落とすと、弟の皇太子恒良親王(つねよししんのう)、新田義貞(にったよしさだ)とともに越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)に下り、金ヶ崎城(かねがさきじょう=現在の福井県敦賀市)に入った。しかし、翌年3月、足利方の攻撃によって金ヶ崎城は落城、両親王も自害した。

なお、名前の読みについては、「たかなが」とも読まれてきている。この点については、本用語解説の「大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)」の項目を参照されたい。

『竹叟夜話』(ちくそうやわ)

『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻40に収録。主に姫路(ひめじ)や龍野(たつの)の周辺にあった逸話、霊験、奇聞などを集めた書物。奥書によれば、天正5(1577)年に永良竹叟(ながらちくそう)という人物が記したとされている。永良竹叟は、『播陽万宝知恵袋』に収録された他の数種の書物にも名前が見え、実在の人物と見てよい。赤松氏一族で、永良荘(ながらのしょう=現在の市川町北西部)を本拠とした永良氏の一族と見られる。

通幻寂霊(つうげんじゃくれい)

1322―91。南北朝時代に活躍した曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶。比叡山(ひえいざん)で出家後、豊後国(ぶんごのくに=現在の大分県)大光寺、加賀国(かがのくに=現在の石川県)大乗寺などで修行し、応安元(1368)年には曹洞宗大本山総持寺(そうじじ)の住持となる。また、応安3(1370)年には丹波国に永沢寺を開き、そのほか、加賀国聖興寺、越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)竜泉寺を開いた。了庵慧明(りょうあんえめい)ら通幻十哲(つうげんじゅってつ)と呼ばれる弟子たちが全国に寺院を開き、曹洞宗の中での一流派となった。