用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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梶井宮門跡(かじいのみやもんぜき)

「門跡」とは、本来は仏法の正当な後継者を指すが、後にそうした後継者と見なされた貴族の子弟が入る格の高い寺院のことをも指すようになった。このうち、とくに天皇の子弟が入る寺院の場合は「宮門跡」と呼ばれた。

梶井門跡は、現在は洛北大原(おおはら)の三千院(さんぜんいん)のことを指すが、本来は天台宗(てんだいしゅう)の開祖最澄(さいちょう)が開いた寺院で、当初は比叡山(ひえいざん)の上にあり円融房(えんゆうぼう)と呼ばれていた。その後、比叡山東麓の坂本(さかもと=現在の滋賀県大津市坂本)に移り、平安末期からは天皇家の子弟も入寺するようになり、梶井宮門跡とも呼ばれるようになった。

鎌倉・室町時代には京都市中周辺を転々としており、応仁の乱後に大原にあった政所(まんどころ)が本坊となった。江戸時代中ごろから、再び門跡自身は京都市中に房(僧侶の住居)を構えるようになり、寺院としての門跡もこの京都市中の房を指すようになっていた。現在の三千院が本坊とされたのは明治4(1871)年のことである。

梶原景時(かじわらかげとき)

?―1200。相模国(さがみのくに=現在の神奈川県)の武士。治承4(1180)年の源頼朝(みなもとのよりとも)挙兵のとき、平家方として戦ったが、石橋山の合戦後、洞窟に隠れていた頼朝を見逃し、後に頼朝に重用されるようになったとされる。

頼朝が弟の範頼(のりより)、義経(よしつね)を派遣して源義仲(みなもとのよしなか)や平家との戦いを進めると、軍勢の一員として派遣された。元暦2(1185)年、四国へ向けて渡海しようとした時に義経と論争を起こしたとされ、また平家滅亡後、義経を頼朝に讒言(ざんげん)し、その結果頼朝と義経の中が断絶したとされるなど、義経との不和が語られてきた。ただしその一方で、一の谷の合戦では子息の景季(かげすえ)を救うために、再度敵中へ突撃したなどの美談も語られている。

頼朝が没した直後の正治元(1199)年、新将軍頼家(よりいえ)に、結城朝光(ゆうきともみつ)が謀反を企てていると讒言したが、逆に有力御家人66人連名の弾劾文を出され失脚した。翌年1月、謀反を企てて京都に向かったが、駿河国で現地の武士に阻まれ、討ち死にした。

軽石凝灰岩(かるいしぎょうかいがん)

凝灰岩とは、火山灰が堆積してできた岩石。そのうち、軽石を主な構成物質とするものを軽石凝灰岩と呼ぶ。そのもとになる成分は、流紋岩質か安山岩質となる。

『義経記』(ぎけいき)

室町時代に成立した軍記物語。『平家物語』とは対照的に、義経の出生と奥州下り、また源平合戦後の没落の過程を中心に描く。当時すでに成立していた義経伝説や、作者の創作が多分に織り込まれている。これ以後の謡曲(ようきょく)や浄瑠璃(じょうるり)における義経関係作品にも、大きな影響を与えた。

城山城跡(きのやまじょうし)

播磨守護赤松氏の拠点城郭の跡。たつの市新宮町にある。赤松則祐(あかまつそくゆう)が、文和元(1352)年ごろから築城を初めたが、その後も長期間にわたって工事が進められていたことがわかっている。赤松氏の本拠地であった赤穂郡(あこうぐん)、佐用郡(さようぐん)は、播磨の西部に偏っていたため、より播磨の中心に近い位置に拠点を構える必要があったことと、このころ美作方面で山名氏と対峙していたため、美作への交通路上に拠点が必要であったことの二つが、城山に拠点が置かれた理由と考えられている。

『玉葉』(ぎょくよう)

12世紀末期の摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)であった九条兼実(くじょうかねざね)の日記。現存するものは、長寛元(1164)年から建仁3(1203)年までにわたる。現在は欠落してしまっている時期のものも多い。しかし、平家の最盛期から鎌倉幕府の創設期に関する記録であり、兼実の上級公家という立場から、記された情報は公家・武家双方について比較的豊富かつ正確であり、史料的価値は高い。

『近村めぐり一歩記』(きんそんめぐりいっぽき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。本文中に、天正3(1575)年3月7日に著者が居住していた英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)のあたりを一巡して書いたもので、同4年3月30日にもう一度歩いて補訂した、とされている。英賀を中心に、西は姫路市網干区和久(ひめじしあぼしくわく)付近、北は太子町の鵤(いかるが)あたり、東は現在の姫路駅付近から飾磨港(しかまこう)あたりまでが記録され、社寺、名所、伝説などが記されている。中世最末期の姫路周辺を示す、数少ない史料の一つである。著者の芦屋道海については、本用語解説の『播磨府中めぐり』項目を参照されたい。

熊野本宮(くまのほんぐう)

和歌山県田辺市にある神社。現在の正式名称は熊野本宮大社。同県新宮市(しんぐうし)にある熊野速玉大社(熊野新宮)、同県那智勝浦町(なちかつうらちょう)にある熊野那智大社と合わせて、「熊野三山」と呼ばれ、古くから信仰されてきた。とくに平安後期の院政期には、院をはじめとする多くの貴族が参詣を繰り返すようになり、これ以後、熊野参詣は次第に社会の諸階層に広まっていった。

群集墳(ぐんしゅうふん)

5世紀後半以降に造られるようになった、小規模な古墳が密集したもの。円墳や方墳によって構成されるものが多く、7世紀ごろまで造られ続けた。こうした古墳群の発生の背景としては、限られた首長のみから、その一族の人々を含めるようになるなど、古墳を造営できる人々の範囲が広がったためと見られている。

元曲(げんきょく)

中国元代(13―14世紀)に盛んになった雑劇、歌謡の総称。他の時代に比べてこのジャンルで優れた作品が多く、元代の文学を代表するものとして評価を受けている。

『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)

鎌倉時代後期に成立した仏教史書。日本への仏教伝来から元亨2(1322)年までの僧侶の伝記や諸事跡を記したもの。著者は禅僧の虎関師錬(こかんしれん)。南北朝時代に、朝廷の許可によって大蔵経(だいぞうきょう、仏教の主要経典集)に加えられ、永和3(1377)年に初版本が刊行されている。

光仁天皇(こうにんてんのう)

709―81。天智天皇(てんじてんのう)の皇子志貴皇子(しきのみこ)の子。神護景雲4(770)年、称徳天皇(しょうとくてんのう)の死去にあたって藤原氏ら群臣に推されて皇太子となり、ついで即位。奈良時代を通して天武天皇(てんむてんのう)の子孫が天皇となっていたが、光仁の即位によって天智系統に代わることとなった。天応元(781)年、病を得て皇太子山部親王(桓武天皇、かんむてんのう)に譲位し、同年没した。

弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)

774―835。日本に真言密教(しんごんみっきょう)をもたらした平安時代初めの僧侶。同じ時期に天台宗をもたらした伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)とならんで、この時期の日本仏教を代表する人物。延暦23(804)年遣唐使留学僧として入唐。長安(ちょうあん)青龍寺の恵果(えか、「けいか」とも言う)に真言密教を学ぶ。大同元(806)年帰国。弘仁7(816)年朝廷より高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を開くことを許される。弘仁14(823)年朝廷より東寺(とうじ)を与えられ、真言密教の道場とした。承和2(835)年死去。延喜21(921)年、朝廷から弘法大師の諡号(しごう、死後の贈り名)が与えられた。

高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)

和歌山県高野町(わかやまけんこうやちょう)にある高野山真言宗(しんごんしゅう)の総本山。京都の東寺(とうじ)とともに、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が活動拠点にした寺院として真言密教(しんごんみっきょう)の聖地とされる。

弘仁2(816)年、空海は真言密教の道場として、高野山の地を朝廷から与えられ、伽藍(がらん)を建立した。紀行文「鳥」で述べた、高野明神と丹生都比売明神から寺地を譲られたとの伝説は、平安中期に成立したと見られる『金剛峰寺修行縁起(こんごうぶじしゅぎょうえんぎ)』から見られるものである。

古浄瑠璃(こじょうるり)

浄瑠璃の成立は、15世紀後半のころと見られているが、当初は、今日のような人形芝居を伴わない、伴奏にのせた語り物の形をとっていた。その後、17世紀後半に竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が義太夫節と呼ばれる曲風を創造して人気を博する。この義太夫節から今日に伝わる人形芝居を伴う浄瑠璃が発達していった。古浄瑠璃とは、こうした義太夫節成立以前の段階の浄瑠璃を指す。

後白河法皇(ごしらかわほうおう)

1127―92。鳥羽上皇(とばじょうこう)の第4皇子で、若い頃は「今様(いまよう、当時の流行歌)」に凝るなど芸能を好み、周囲からは天皇の位を継ぐ器とは見られていなかったという。しかし、近衛天皇(このえてんのう)の死去にともない、崇徳上皇(すとくじょうこう)の皇子の即位を望まない鳥羽上皇の意向もあって久寿2(1155)年に天皇となる。ついで、保元3(1158)年に皇子の二条天皇(にじょうてんのう)に譲位して上皇となり院政を行った。

治世中は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)、その後の二条天皇との対立、続く平清盛(たいらのきよもり)の勢力拡大、源平が戦った治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱と鎌倉幕府の成立に至るまで、数多くの戦乱とめまぐるしい政治の変動が起こる動乱の時期であった。後白河はこの中で次々と現れてくる新勢力と対決、妥協をしつつ、数々の危機に瀕しながらも、最終的には院政・公家政権の一定の維持に成功した。建久3(1192)年3月没。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

1288―1339。文保2(1318)年即位。元亨元(1321)年に父後宇多法皇の院政が停止され、以後親政を行う。正中元(1324)年、後醍醐の倒幕計画が発覚し、側近の日野資朝(ひのすけとも)らが処罰される(正中の変)。さらに元弘元(1331)年、再度の倒幕計画が発覚したため、京都を脱出し笠置山(かさぎやま)に立てこもるが、幕府軍に敗れた。幕府方は光厳天皇を即位させ、後醍醐は隠岐国(おきのくに=現在の島根県隠岐諸島)に流罪(るざい)となった。

しかし、元弘3/正慶2(1333)年、後醍醐は隠岐を脱出、このころ近畿周辺で活動していた護良親王(もりよししんのう)、赤松円心(あかまつえんしん)、楠木正成(くすのきまさしげ)らの勢力に、討伐のために幕府から派遣されていた足利高氏(あしかがたかうじ)らの有力御家人も加わり、5月に六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、同じころ関東でも新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡した。

帰京した後醍醐は建武の新政を始めるが、天皇専制を目指す性急な改革は社会の反発を招き、建武2(1335)年、鎌倉北条氏の残党蜂起(中先代の乱)の鎮圧のために東国へ向かった足利尊氏が、鎌倉で後醍醐から離反を明らかにしたことで崩壊した。後醍醐方は一旦は尊氏を破るが、九州へ落ち延びた尊氏方は勢力を盛り返し、建武3(1336)年5月の湊川(みなとがわ=現在の神戸市兵庫区)の戦いに勝利し、ついで京都を占領した。後醍醐は比叡山(ひえいざん)に立てこもり抗戦するが、足利方の勧めによって三種の神器を引き渡して和議を結ぶ。足利方は、光厳上皇の院政のもと、光明天皇(こうみょうてんのう)を即位させ、尊氏は建武式目(けんむしきもく)を定めて室町幕府を開いた。

しかしその直後、後醍醐は大和国吉野(やまとのくによしの=現在の奈良県吉野町)に脱出して朝廷を開いた。これ以後、京都の朝廷(北朝)と、吉野の朝廷(南朝)が並立しての抗争が続く。後醍醐は、皇子や重臣たちを全国各地へと送り、北朝方に対抗させた。しかし劣勢が続く中、暦応2/延元4(1339)年に病により吉野で死去した。

御着城跡(ごちゃくじょうし)

姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)にあった城。赤松氏(あかまつし)の重臣である小寺氏(こでらし)の居城。江戸時代中ごろの絵図では、四重の堀の中に山陽道や町家を取り込んだ、いわゆる「惣構(そうがまえ)」を持つ大城郭として描かれている。この絵図の描写がどこまで信頼できるかは慎重な検討が必要であるが、中心部付近の堀跡の一部は現在も地表面から推測でき、また近年の発掘調査で二の丸跡の建物群や堀跡などが検出されている。現在二の丸跡の一部は城址公園となっている。

小寺氏(こでらし)

播磨守護赤松氏の重臣の一つで、南北朝時代に播磨の守護代を務めた宇野頼季(うのよりすえ)の子孫とされる。応仁の乱後、赤松氏が播磨・備前(びぜん=現在の岡山県南東部)・美作(みまさか=現在の岡山県北東部)を回復すると、播磨の段銭奉行(たんせんぶぎょう)という租税徴収の役職につき、御着(ごちゃく=現在の姫路市御国野町御着)を拠点に勢力を広げた。

戦国前半には、赤松氏当主を支えて備前(びぜん=現在の岡山県東部)を拠点とする浦上(うらがみ)氏との抗争を繰り返した。戦国最末期の当主である政職(まさもと)は、天正3(1577)年に織田信長に服属したが、翌年三木の別所長治(べっしょながはる)が離反するとこれに同調して御着城に籠城した。しかし、三木城落城にともなって没落した。

戦国時代後半に重用された家臣に黒田氏があり、小寺の姓を名乗ることを許されている。この黒田氏から出て豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えたのが黒田孝高(くろだよしたか)で、黒田氏は江戸時代には筑前国(ちくぜんのくに=現在の福岡県)福岡藩主となった。小寺氏の子孫も江戸時代には黒田家に仕えるようになった。

五輪塔(ごりんとう)

供養塔、墓塔として造られることが多かった仏塔の一種。石製のものが多く残る。下から順に、基礎にあたる方形の地輪(ちりん)、円形の水輪(すいりん)、笠形の火輪(かりん)、半球形の風輪(ふうりん)、宝珠形(ほうしゅがた)の空輪(くうりん)の五段に積み、古代インドで宇宙の構成要素と考えられていた、地、水、火、風、空(五大、ごだい)をあらわす。密教の影響が強く、石塔としては平安時代末期からの遺品が知られている。

『今昔画図続百鬼』(こんじゃくがずぞくひゃっき)

安永8(1779)年刊。鳥山石燕(とりやませきえん)画。安永5(1776)年に刊行された『画図百鬼夜行(がずひゃっきやぎょう)』の続編で、「妖怪図鑑」としての性格を持つ。石燕はこれ以後も、『今昔百鬼拾遺』、『百鬼徒然袋(ひゃっきつれづれぶくろ)』を著した。この4つの画集で、200種以上の妖怪が描かれている。石燕は狩野派の絵師で、隠居仕事に画業を行ったと言われ、『画図百鬼夜行』以下4つの妖怪画集は、60代になってからの仕事であった。

『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)

12世紀成立と見られる説話集。著者は大寺院の僧侶と考えられているが、詳しくはわかっていない。天竺(てんじく=インド)・震旦(しんたん=中国)・本朝(ほんちょう=日本)の三部構成で、合計1,000話以上が収録されている。

ただし、未完成のまま残された書物と見られ、全体の構成は完結しておらず、また地名などを中心に記述が空白のまま残されている箇所も多い。また収録された説話は、大部分が数多くの先行文献から採録されたものと見られているが、仏教的な功徳、霊験譚などの仏教的説話から、武士の武功や民間の奇談異聞などの世俗的説話まで、幅広い内容の話がみられる。平安時代後期の社会相を知る上で貴重な文献。