用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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あ行

羽柴秀吉(はしばひでよし)

1537―1598。織田信長に仕えて頭角を現し、天正5(1577)年に信長の命を受けて播磨に進出する。この時点ですでに播磨の多くの勢力は信長に服属していたが、小寺孝高(こでらよしたか、後の黒田如水)の協力などによってあらためて平定を進めた。しかし、天正6(1578)年に三木の別所(べっしょ)氏、摂津有岡城(ありおかじょう=現在の伊丹市)の荒木村重(あらきむらしげ)が相次いで離反したため、三木城などをめぐって戦った。天正8(1580)年に、別所氏のほか、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の一向一揆勢力、宍粟郡(しそうぐん)の宇野(うの)氏などを攻略して播磨を平定した。また同時期に但馬へも兵を進めていて、最終的には播磨と同じ天正8年に、守護家山名氏を降伏させて平定した。天正9(1581)年には因幡国鳥取城や淡路国を攻略するとともに、居城としていた姫路城を改築している。

天正10(1582)年の本能寺の変の後、明智光秀(あけちみつひで)、柴田勝家(しばたかついえ)らを相次いで滅ぼし、小牧・長久手の戦い(1584年)の2年後に徳川家康(とくがわいえやす)を臣従させ、天正13(1585)年に四国を平定する。翌14年には豊臣姓を名乗り関白となり、15年に九州を平定、天正18(1590)年に関東、東北を平定し全国を統一した。文禄元(1592)年からは2度にわたる朝鮮半島への侵略戦争を進めたが、慶長3(1598)年に没した。

蜂須賀氏(はちすかし)

尾張国蜂須賀(おわりのくにはちすか=現在の愛知県美和町)から出た領主。織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正13(1585)年に阿波国(あわのくに=現在の徳島県)一国を与えられる。ついで大坂の陣(1615年)の後、淡路一国を加増され、25万石余となる。その後代々徳島藩主として幕末に至る。

『播磨鑑』(はりまかがみ)

宝暦12(1762)年ごろに成立した播磨の地理書。著者は、播磨国印南郡平津村(はりまのくにいなみぐんひらつむら=現在の加古川市米田町平津)の医者であった平野庸脩(ひらのつねなが、ひらのようしゅう)。享保4(1719)年ごろから執筆が始められ、一旦完成して姫路藩に提出した宝暦12年以降にも補訂作業が進められた。著者の40年以上にわたる長期の調査・執筆活動の成果である。活字化されたものは、播磨史籍刊行会校訂『地志 播磨鑑』(播磨史籍刊行会、1958年)がある。

播磨総社(はりまそうしゃ)

姫路城の南東にある神社。祭神は射楯大神(いたておおかみ)と兵主大神(ひょうずおおかみ)。10世紀の『延喜式(えんぎしき)』にも見える。社伝によれば、養和元(1181)年に播磨国内の神々174座を境内に合祀し、播磨国惣社(現在では「総社」と表記する)と称されたという。「惣社」とは、一般的には平安時代後期以降に見られるようになる、国府の近くに国内の神々を合祀した神社を指す。この社伝も、具体的年代についてはなお検討が必要であろうが、こうした全国的な流れの中で播磨の総社も成立したことを示すと見てよい。なお、「総社」は、一般的には「そうじゃ」と読む場合が多いが、播磨では「そうしゃ」と濁らずに読む。

播磨天台六ヶ寺(はりまてんだいろっかじ)

円教寺(えんぎょうじ、姫路市書写)、随願寺(ずいがんじ、姫路市白国)、八葉寺(はちようじ、姫路市香寺町相坂)、神積寺(じんしゃくじ、福崎町東田原)、一乗寺(いちじょうじ、加西市坂本町)、普光寺(ふこうじ、加西市河内町)の6ヶ寺のこと。平安時代後期以来、播磨の国衙(こくが=国の役所)が主催する法会に参加するなど、播磨全体の安穏を祈る寺院として位置づけられていた。

『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)

律令国家(りつりょうこっか)の命令によって編纂された古代播磨の地理書。霊亀元(715)年前後に編纂されたものと見られている。現存するものは、三条西家(さんじょうにしけ)に所蔵されていた古写本で、巻首の赤石(明石=あかし)郡の全部、賀古(加古=かこ)郡冒頭の一部と、巻末の赤穂郡(あこうぐん)の全部の記載が欠落している。活字化されたものは、日本古典文学大系新装版『風土記』(秋本吉郎校注、岩波書店、1993年)のほか、全文を読み下しした、東洋文庫145『風土記』(吉野裕訳、平凡社、1969年)などがある。

『播磨府中めぐり』(はりまふちゅうめぐり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。末尾に天正4(1576)年4月7日とあり、このころの成立と見られる。播磨府中(姫路)周辺の城跡、社寺、名所などを詳細に記し、池田輝政(いけだてるまさ)による現姫路城築城以前の姫路を知るうえで重要な史料である。ただし、後世の補筆も多く見られる。著者の芦屋道海は、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の住人で、平安時代の陰陽師芦屋道満の子孫を称したという。『播陽万宝智恵袋』には、この他に、『近村めぐり一歩記』、『播州巡行(考)聞書』も道海の著書として収録されている。また、『播磨鑑(はりまかがみ)』にも道海の和歌が見える。

『播州故事考』(ばんしゅうこじこう)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正4(1576)年赤松寿斎(あかまつじゅさい)の著。播磨の寺社やさまざまな故事を記したもの。著者の赤松寿斎については詳しいことはわからないが、『播陽万宝智恵袋』巻44の『播州諸家注進』も、寿斎の著と記されている。

『播州古所跡略説』(ばんしゅうこしょせきりゃくせつ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻13収録。宝暦6年天川友親(あまかわともちか)の著。播磨の名所、寺社、故事、伝説など101項目を記す。著者の天川友親は『播陽万宝智恵袋』の編纂者。詳しくは、本用語解説の『播陽万宝智恵袋』項目を参照されたい。

『播州古所伝聞志』(ばんしゅうこしょでんぶんし)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正2(1574)年芦屋道考(あしやどうこう)の著。播磨の社寺、歴史、風俗などを記したもの。本来は82項目の話が載せられた書物であったが、『播陽万宝智恵袋』には、三木通識が他書との重複を省いて抽出した39項目が載せられている。著者の芦屋道考については詳しいことはわからない。三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

『播州巡行(考)聞書』(ばんしゅうじゅんこうききがき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻43収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。播磨諸所の古跡、寺社や武家、僧侶たちをめぐる奇談や逸話を集めた書物。芦屋道海は天正年間に著作活動を進めた人物であり、本書もそのころの成立と考えられる。道海については、本用語解説『播磨府中めぐり(はりまふちゅうめぐり)』項目を参照されたい。

『播州府中記』(ばんしゅうふちゅうき)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻14収録。天正4(1576)年芦屋道仙(あしやどうせん)の著。播磨の伝説集で、もと79項目の話が収められていたが、『播陽万宝智恵袋』には、三木通識が他書に出ているものを省いて、19項目を抽出したものが収められている。芦屋道仙は、『播陽万宝智恵袋』巻43収録の赤松了益(あかまつりょうえき)著『播州龍城聞書(ばんしゅうりゅうじょうききがき)』に、飾東郡三宅(しきとうぐんみやけ=現在の姫路市三宅)に住む占い師であり、平安時代の伝説的陰陽師芦屋道満(あしやどうまん)の子孫である、と記されているので、実在の人物と見てよいだろう。なお、三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

『播州府中めぐり拾遺』(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。寛延3(1750)年、三木通識著。同書に収められた芦屋道海(あしやどうかい)著『播磨府中めぐり』の注釈書としての性格を持ち、姫路周辺の寺社、古跡などについての考証を加えた書物。三木通識は18世紀前半から中ごろにかけて活動した姫路の文人。幼少より学を好み、多くの著作を残した。『播陽万宝智恵袋』にも、通識の著作は17点収められている。

『播州雄徳山八幡宮縁起』(ばんしゅうゆうとくさんはちまんぐうえんぎ)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻17収録。寛延3(1750)年三木通識著。現姫路市山野井町(ひめじしやまのいちょう)にある男山(おとこやま)とその周辺にある寺社の、由来、変遷、伝説などを記したもの。著者の三木通識については、本用語解説の『播州府中めぐり拾遺(ばんしゅうふちゅうめぐりしゅうい)』項目を参照されたい。

板状節理(ばんじょうせつり)

岩石の中の割れ目が平行に発達し、割れた岩塊が板状に見えるもの。ここで出てくる溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)のような火成岩の場合、マグマが冷える時に形成されると考えられている。

『番町皿屋敷』(ばんちょうさらやしき)

一般的なものは、江戸番町に住む旗本(はたもと)の青山主膳(あおやましゅぜん)の下女お菊が、皿を紛失したことを責められて井戸に投げ込まれて殺され、そのたたりが青山を苦しめたとする話。江戸を舞台とした皿屋敷話としては、現在のところ正徳2(1712)年の『当世知恵鑑』に見える牛込(うしごめ)を舞台とした話が、残された書物の中では最も古いと見られている。なお、歌舞伎の演目としては、現在は1916(大正5)年の岡本綺堂(おかもときどう)による新歌舞伎作品がよく知られている。

『播陽因果物語』(ばんよういんがものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻38収録。松原集山(まつばらしゅうざん)著。『枕草子(まくらのそうし)』、『平家物語』、『太平百物語(たいへいひゃくものがたり)』、『因果物語(いんがものがたり)』など、先行するさまざまな書物から、播磨に関係のある話を集めたもの。序には宝暦7(1757)年とあり、このころ成立したと見られる。

『播陽うつつ物語』(ばんよううつつものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻39収録。奥書によると、天正元(1573)年12月10日の夜、赤松了益(あかまつりょうえき)が久保玄静(くぼげんせい)に話した内容をまとめたもので、剣持清詮(けんもちきよあき)が所蔵していた本を三木通識が元禄年間に転写し、延享5(1748)年に校訂したものとされる。播磨の古跡の由来や物語が、別の本からの引用を含めて記されている。著者の赤松了益は、龍野赤松氏の一族で、戦国末期から安土桃山時代にかけて龍野で医業を営む傍ら著述を行った人物とされ、『播陽万宝智恵袋』にも他に3点の著書が収録されている。

『播陽万宝智恵袋』(ばんようばんぽうちえぶくろ)

天川友親(あまかわともちか)が編纂した、播磨国の歴史・地理に関する書籍を集成した書物。宝暦10(1760)年に一旦完成したが、その後にも若干の収録書籍の追加が行われている。天川友親は現在の姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)の商家に生まれた。収録された書物は、戦国末・安土桃山時代から、友親の同時代にまでわたる125件に及ぶ。これらのほとんどは、現在原本が失われてしまっており、本書の価値は高い。活字化されたものは、八木哲浩校訂『播陽万宝知恵袋』上・下(臨川書店、1988年)がある。

平泉(ひらいずみ)

現在の岩手県平泉町(いわてけんひらいずみちょう)。平安時代後半に東北地方で勢力を広げた奥州藤原氏の本拠地。11世紀末〜12世紀初めに、奥州藤原氏初代の清衡(きよひら)が本拠をこの地に移したとされる。藤原氏の居館として柳之御所(やなぎのごしょ)、加羅御所(からのごしょ)などがあり、初代清衡の中尊寺(ちゅうそんじ)、2代基衡(もとひら)の毛越寺(もうつうじ)、3代秀衡(ひでひら)の無量光院(むりょうこういん)など、歴代の当主が造営した大寺院が甍(いらか)を並べていた。

『平家物語』(へいけものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平家の興隆と滅亡を、仏教的な無常観を底流に置きながら記した書物。著者については、天台座主慈円(てんだいざすじえん)の周辺の人物が執筆したとの説などが注目されているが、確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平治物語(へいじものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。これらの書物は、一定の事実を示す史料や当事者の証言などをも参照しながら執筆されたと考えられている。したがって、記述の中の事実を記す部分と物語的な創作の部分との区別は、それぞれについて吟味する必要がある。

『平治物語』(へいじものがたり)

鎌倉時代前半に成立した軍記物語。平治元(1159)年に発生した平治の乱の経緯を記す。作者については、都の貴族層の中で考えられているが確定的な説はない。『保元物語(ほうげんものがたり)』、『平家物語(へいけものがたり)』、『承久記(じょうきゅうき)』とともに、「四部合戦状(しぶかっせんじょう)」とも称される。

宝筐印塔(ほうきょういんとう)

本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本ではとくに石塔の場合、墓碑や供養塔として建てられるようになっていた。石塔としては、鎌倉時代中ごろからの遺品が残る。形状は、方形の基礎、基礎よりも小ぶりな塔身、笠形の屋根、円筒状の相輪からなる。屋根には四隅に隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起が立てられる。この隅飾りの開きぐあいに時代ごとの特徴がよくあらわれ、古いものほど直立し、新しいものは外側へ開いていく傾向がある。

法道仙人(ほうどうせんにん)

奈良時代に活躍したとされる伝説上の宗教者。インドの生まれとされ、主に播磨から丹波南部、但馬南部、摂津西部にかけて法道が開いたとの伝承を持つ寺院が多数存在する。

その伝承の中心は加西市の一乗寺(いちじょうじ)にあったと見られる。あるとき布施(ふせ)を乞うために、法道が瀬戸内海を行く船に鉢を飛ばしたところ、船頭が積荷は官庫に納めるためのものなので与えられないと断ったところ、船の米俵が次々とひとりでに一乗寺を目指して飛んで行ってしまった。船頭が許しを請うと、法道は俵を飛ばして船に返したが、1俵だけ途中で落ちてしまった。そこで、この俵が落ちたところを米堕(よねだ=現在の加古川市米田町)と呼ぶようになった、という伝説がよく知られている。

こうした伝説には、長谷寺(はせでら)の徳道(とくどう)や、信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)に登場する命蓮(みょうれん)などの説話の影響が考えられている。法道伝説は、こうした中央で成立した説話を参考に作り出され、地域限定的に広まったものと見られているのである。こうした法道伝説とよく似た、地域に特徴的な宗教者伝説としては、備前(びぜん=現在の岡山県東部)を中心に広がる報恩大師(ほうおんだいし)伝説などがある。

ポットホール(甌穴)(ぽっとほーる(おうけつ))

河床が岩盤などの硬い物質でできていた場合、そこにできた割れ目などの弱い部分が水流で侵食されてくぼみとなる。そのくぼみに礫が入り、水流によって回されることで、岩盤を丸く浸食してできる穴のこと。