用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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あ行

赤松氏(あかまつし)

播磨国佐用荘(はりまのくにさようのしょう)内を本拠とする領主で、則村(のりむら)は鎌倉幕府倒幕戦で活躍し、室町幕府から播磨守護に任命された。明徳の乱(1391年)後は、播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、美作(みまさか=現在の岡山県北東部)の守護職を持ち、幕府の侍所所司(さむらいどころしょし)に任命される家柄(いわゆる「四職(ししき)」)として中央政界でも活躍した。

しかし、嘉吉元(1441)年に、満祐(みつすけ)が将軍の義教(よしのり)を殺害する嘉吉の乱を起こし、幕府軍に討伐されて一旦滅亡する。その後、一族の遺児である政則(まさのり)が加賀半国の守護としての再興を許された。応仁の乱が始まると、東軍方について旧分国の播磨、備前、美作を回復したが、その後も但馬(たじま)の山名氏(やまなし)や、重臣の浦上氏(うらがみし)との対立抗争を繰り返し、天文年間には山陰の尼子氏(あまごし)の進出によって一旦淡路(あわじ)へ脱出したこともあった。

戦国後半には分国各地の有力者が自立傾向を強めたが、守護家としての権威をもとに、影響力の及ぶ範囲を狭めながらも存続していった。最後の当主である則房(のりふさ)は、織田政権に服属した後、豊臣政権によって阿波(あわ=現在の徳島県)へ移され、そのまま病没したとも、関ヶ原の合戦で西軍方についたため自害させられたともされ、最後は定かではないが、これ以後断絶した。

明智光秀(あけちみつひで)

?―1582。美濃国(みののくに=現在の岐阜県南部)の武家である土岐(とき)氏の一族とされる。越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)で朝倉(あさくら)氏に仕えていたが、永禄11(1568)年に足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長を頼って美濃へ赴いた時に同行して信長に仕えるようになったと見られている。

以後信長に才能を認められ、京都の政務や、畿内周辺各地での軍事活動などに従事した。天正3(1575)年からは丹波攻略を命じられ、一時は多紀郡(たきぐん=現在の篠山市)の波多野(はだの)氏を傘下に収めて、氷上郡(ひかみぐん=現在の丹波市)黒井城(くろいじょう)の赤井(あかい)・荻野(おぎの)氏を攻めたが、翌年波多野氏の離反によって一旦敗れて撤退する。

その後天正5(1577)年ごろから再び丹波へ進出し、同7(1579)年6月に波多野氏の八上城(やかみじょう)を落とし、ついで赤井・荻野氏の黒井城や丹後(たんご=現在の京都府北部)の一色(いっしき)氏を下して丹波・丹後を平定した。

天正10(1582)年6月、京都本能寺に信長を殺して天下の権を窺ったが、羽柴秀吉(はしばひでよし)に山城国山崎(やましろのくにやまざき=現在の京都府大山崎町)で敗れ、敗走中に小栗栖(おぐるす=現在の京都市)で住民に襲撃され死去した。

足利義稙(あしかがよしたね)

1466―1523。室町幕府10代将軍。初めの名は義材(よしき)、ついで明応7(1498)年に義尹(よしただ)、さらに永正10(1513)年に義稙(よしたね)と改名した。延徳2(1490)年に将軍となり、近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の六角(ろっかく)氏、河内国(かわちのくに=現在の大阪府東部)の畠山(はたけやま)氏の討伐を進めたが、明応2(1493)年、管領(かんれい)細川政元(ほそかわまさもと)のクーデターによって将軍職を失った。

その後越中国(えっちゅうのくに=現在の富山県)に移って畠山氏を頼って京都奪回を目指すが失敗。ついで周防国山口(すおうのくにやまぐち=現在の山口県山口市)の大内義興(おおうちよしおき)を頼り、細川氏の分裂に乗じて永正5(1508)年に大内義興・細川高国(ほそかわたかくに)とともに京都に復帰し将軍職に返り咲いた。

しかし、自らを擁立した細川高国、大内義興の専横に不満を持ち、永正10年に京都を出奔して近江国甲賀(こうか=現在の滋賀県甲賀市)に移る。この時は大内義興の譲歩により帰京するが、大永元(1521)年に再び細川高国と不和となり淡路国に出奔、将軍職を失った。その後阿波国(あわのくに=現在の徳島県)へ移り、大永3(1523)年に没した。

安宅氏(あたぎし(あたかし))

紀伊国安宅荘(きいのくにあたぎのしょう=現在の和歌山県白浜町)を本貫地とする武士。南北朝時代から水軍としての活躍が知られ、やがて淡路にも勢力を広げた。由良城(ゆらじょう)や洲本城を拠点としたとされ、戦国時代には三好(みよし)氏に従うようになった。

安国寺(あんこくじ)

南北朝時代、足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)兄弟が、帰依していた臨済宗(りんざいしゅう)僧の夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、全国の国ごとに建立した寺院。また、それぞれの安国寺ごとに塔も建立され、「利生塔(りしょうとう)」と呼ばれた。国ごとに国分寺を建立した聖武天皇の事跡に倣い、後醍醐天皇以下の南北朝の戦乱で死没した人々の慰霊のために建立された。新たに建立されたものもあるが、既存の寺院を改修してこれに充てたものもある。

池田輝政(いけだてるまさ)

1565―1613。織田信長(おだのぶなが)の家臣である池田恒興(いけだつねおき)の次男。父と兄の元助(もとすけ)が小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(1584年)で戦死したために家督を継ぐ。関ヶ原の戦い(1600年)の後、三河吉田(みかわよしだ=現在の愛知県豊橋市)15万石から加増されて、播磨姫路(はりまひめじ)52万石の領主となる。慶長6(1601)―14(1609)年にかけて、羽柴秀吉(はしばひでよし)が築いていた姫路城を大改修し、現在見られる城郭と城下町を建設した。

徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を妻としたために江戸幕府から重用され、長男の利隆(としたか)のほかに、督姫が生んだ子供たちなども順次それぞれに所領を得て、一時は一族で播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、淡路(あわじ)、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)に合計100万石近くを領有した。慶長18(1613)年死去。

『夷堅志』(いけんし)

中国南宋(なんそう)の時代に洪邁(こうまい、1123―1202)が編纂した奇談集。洪邁は政府の官僚で、歴史書の編纂にも従事した知識人。もと420巻あったが、多くは早く散逸したと見られている。人智を超えた怪異・奇跡の話を集める書物は、中国では六朝時代(りくちょうじだい、3世紀〜6世紀)に盛んで、こうした書物を「志怪(しかい)」と呼んだ。『夷堅志』は、こうした流れをくむ新しい時期の書物である。

井上内親王(いのうえないしんのう)

717―75。光仁天皇の皇后。聖武天皇(しょうむてんのう)の皇女。宝亀3(772)年、天皇を呪詛(じゅそ)したとして皇后を廃され、ついで息子の他戸親王(おさべしんのう)も母の罪を受けて皇太子を廃された。翌年、他戸親王とともに大和国宇智郡(やまとのくにうちぐん=現在の奈良県五條市)に幽閉され、同6年4月、母子同日に没した。政府関係者による毒殺と考えられている。

『絵本百物語』(えほんひゃくものがたり)

天保12(1841)年刊。別名『桃山人夜話(とうさんじんやわ)』。文章は桃花園三千麿が執筆、画は竹原春泉(たけはらしゅんせん)が描き、45種の妖怪話を多色刷りの絵とともに紹介している。

応神天皇(おうじんてんのう)

『古事記(こじき)』・『日本書紀(にほんしょき)』の神話では第15代の天皇とされる。母の神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵したときは、母の胎内にあり、帰国後筑紫(つくし=現在の福岡県付近)で生まれたと記される。また、朝鮮半島からの論語(ろんご)・千字文(せんじもん)の伝来なども応神代の記事として見える。

実在の可能性を考える説もある天皇で、河内(かわち=現在の大阪府東部)を拠点とする新王朝の創始者とする説や、4世紀から5世紀に中国へ使者を送ったと中国の歴史書に見える、いわゆる「倭の五王(わのごおう)」の一人に比定する説などもある。日本最大級の古墳の一つである大阪府羽曳野市(はびきのし)の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)が、古来その陵墓とされてきた。また、後世には父仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、母神功皇后とともに、八幡信仰の三祭神の一つともされるようになっている。

太田垣氏(おおたがきし)

但馬国南部の朝来郡(あさごぐん=現在の朝来市)を本拠とした中世後期の領主。但馬の多くの中世在地領主と同様に、古代の日下部氏(くさかべし)の子孫と称した。山名氏が但馬の守護となると重用され、但馬や備後(びんご=現在の広島県東部)の守護代に任命された。

嘉吉の乱後に山名氏が播磨守護職を獲得すると、播磨に置かれた三人の守護代の一人ともなった。戦国時代には一時期領内に発見された生野銀山(いくのぎんざん)の権益を掌握したとも伝えられるが、天正年間における羽柴秀吉(はしばひでよし)の播磨・但馬進出によって没落した。

大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)

1308―35。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子。幼少のころに梶井門跡(かじいもんぜき)に入り、天台座主(てんだいざす)を2度務めた。元弘元(1331)年に後醍醐天皇が2度目の倒幕運動として元弘の変を起こすと、還俗してこれに参加した。建武政権成立後は一旦征夷大将軍に任命されるが、後醍醐や足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、建武元(1334)年に謀反を企てたとされて捕らえられ鎌倉に幽閉された。翌年、鎌倉北条氏の残党が蜂起した中先代の乱(なかせんだいのらん)で鎌倉が陥落したとき、尊氏の弟である足利直義(ただよし)によって殺害された。

なお、播磨の守護となった赤松円心(あかまつえんしん)の三男則祐(そくゆう)は比叡山で出家しており、元弘の変では護良の配下として戦ったとされる。

また、護良をはじめとする後醍醐の皇子の名前につけられた「良」については、一般には「なが」と読まれることも多いが、近年では「よし」と読むべきとする説が有力である。

大汝遅命(おおなむちのみこと)

『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、播磨の国づくりを進めた伊和大神(いわおおかみ)の別名として登場するが、一般的には、出雲神話(いずもしんわ、出雲は現在の島根県東部)に登場する大国主(おおくにぬし)の別名である。このことは、播磨土着の神である伊和大神が、記紀神話(『古事記』、『日本書紀』の神話)の影響を受けて、大国主と同一化されたことを示すとも考えられている。

なお、大国主は、記紀神話ではスサノオの息子、もしくは子孫とされ、少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国づくりを進め、やがて天から降ってきた天照大神(あまてらすおおみかみ、「てんしょうだいじん」とも読む)の子孫に国土を譲り、出雲に祀られるようになったとされている。