沼島女郎
島から妃が流した絵

今から700年近く前、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)をたおそうと、戦いをはじめていたころの話です。西風が吹きつけるある朝、淡路島(あわじしま)の南にうかぶ沼島(ぬしま)の水の浦(みずのうら)の浜辺に、小舟が流れつきました。漁師たちが船の中を見ると、十二単(じゅうにひとえ)を身にまとった、見たこともないような美しい女性が倒れていました。

漁師たちはおどろいてみなで助けおこしました。女性は、ぽつりぽつりと自分の身の上を語りはじめました。
「私は都の後醍醐天皇の皇子(おうじ)である尊良親王(たかよししんのう)の妃(きさき)です。いくさがあって、尊良親王が土佐国(とさのくに=現在の高知県)に移される罰(ばつ)を受けましたので、私も後を追って土佐に行くところでした。」

土佐に移された尊良親王は、しばらくしてから家来の秦武文(はたのたけぶん)を送って、都に残してきた妃を呼んだのです。妃はいとしい夫に会う日を楽しみに、大物浦(だいもつうら=現在の尼崎市)から土佐へと向けて船出することにしました。

ところが、妃が乗ろうとした船は、海賊船だったのです。海賊船の首領は、妃に付きそっていた武文を言葉たくみにだまし、陸に置きざりにして船を出しました。だまされたことに気づいた武文は、小舟に乗って必死で追いかけましたが、とても追いつけず、ついに海に身を投げ自殺してしまいました。

しかし、海賊船が鳴門(なると)の海峡(かいきょう)に近づくと、にわかに空がかきくもり、海には大うずがおこって、横なぐりの雷雨(らいう)が吹きすさぶと、船は木の葉のように波にもまれはじめました。そして、荒れくるう海の中に、武文の亡霊(ぼうれい)があらわれたのです。

首領は、「これは海の神のいかりだ。これをしずめるには妃を海に放すしかない。」と考えました。妃は小舟に移され、荒れくるう海に放されました。妃はいつしか気を失ってしまいました。

妃は島の人たちの手厚いもてなしのおかげで、すぐに元気をとりもどしました。しかし、それにつけても思い出されるのは土佐にいる夫のこと。でも、大切にもてなしてくれる島の人々の気持ちを思うと、なかなか土佐に行きたいとは言い出せませんでした。

やがて戦いは収まり、後醍醐天皇が都で新しい政治を始めることになり、土佐の尊良親王も都に帰ることができました。八方手をつくして妃が沼島にいることを知った親王は、すぐに妃をむかえる使者を送りました。

夫との再会を待ちわびる妃はすぐにでも都に帰ろうとしました。ところが、船を出そうとすると、またいつかのように海が荒れ、大風が吹きすさびはじめました。妃をしたう島の人々は口々に、「これは海神のおいかりじゃ。お妃様はやはり島にいてくだされ。」と頼みました。

それでも妃の都に帰る決心はかたく、ふところから紙を取り出すと、自分とは似ても似つかないみにくい女性をえがき、「わたくしの姿はこのようなものですよ。」と海に流しました。すると、大風はぴたりと収まり、もとの静かな海に戻りました。

島の人々は、涙ながらに妃を見送りました。それからというもの、沼島の人々は近くの海でとれるオコゼによく似た魚のことを、「沼島女郎(ぬしまじょろう)」と呼ぶようになったのです。

(『郷土の民話』淡路編、『兵庫の伝説』第一集をもとに作成)