明石の蛸
大タコ(『北斎漫画』)

大タコ
(『北斎漫画』)

明石(あかし)のタコは名産として全国的に有名だが、やはり、明石には大ダコの話が伝わっている。明石市街地の西にある林神社付近がその舞台とされてきた。林神社の西側には現在貴崎(きさき)という地名があるが、ここが二人のお后が住んでいたという岸崎(きさき)にあたるという。また、林神社の東側の町名を立石(たていし)といい、ここの山裾に、大ダコが石になったという場所があって、「立石」と呼ばれている。ただし、現在は石そのものは見あたらず、「立石」の下からいつしかわき出るようになった清水の跡とされる古井戸が残されている。また、この大ダコ退治の話は、タコツボ漁の起源の話としても語られてきた。

ただし、この話、江戸時代中ごろの地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』では、大ダコではなく、大エイを退治する話として載せられている。『播磨鑑』の誤記の可能性もあるが、あるいは明石のタコが名産として有名になるにつれて、主役がエイからタコに交代したのかもしれない。エイの伝説は、「ひょうご伝説紀行――語り継がれる村・人・習俗――」の「えいがしま――エイが一緒にお祈りをする――」で紹介したように、明石の西にある江井ヶ島(えいがしま)の由来伝説としても語られている。この地域にとって、古い段階での神聖な魚はタコではなくエイであったのであろうか。

林神社

立石の井

タコツボ(林崎漁港にて)

タコツボ
(林崎漁港にて)

現在の林崎・松江漁港

現在の
林崎・松江漁港

タコに限らず、明石の伝説にはやはり海にかかわるものが多い。紀行文「長寿伝説」で紹介した人魚伝説もその一つである。また、明石という地名も、林崎の西、松江の沖合の海中に赤い岩があったところからついたとされている。松江海岸には由来を記した立て札とともに、鹿の絵が彫られた赤い岩が置かれている。近年の調査で、実際に沖合の海中に赤い石があることが確認されているという。この赤石の由来については、これも「ひょうご伝説紀行――語り継がれる村・人・習俗――」の「夢野――夢占いの結末は・・・――」で夢野の鹿の話として紹介している。淡路へ渡ろうとして猟師に射殺された牡鹿(おじか)の血が固まったので赤いという話である。

ただしこの話、「ひょうご伝説紀行――神と仏――」の「神の坐す山と神出の里」で取り上げた神戸市西区神出(かんで)の最明寺(さいみょうじ)の縁起では、雄岡山(おっこさん)の男神が、小豆島(しょうどしま=現在の香川県小豆島町)の女性に恋をして、鹿の背に乗って海を渡ろうとしたが猟師に鹿が射殺された、という話としても伝えられている。人々の興味を引く話は、さまざまなバリエーションを生み出しながら広まっていくものなのだろう。伝説は、その時代の人々の関心や、語られる場所、目的によって、少しずつ変わっていく。

林崎の海

林崎の海

松江海岸の赤石

松江海岸の赤石

松江の海

松江の海

沼島を訪ねる

「ひょうご伝説紀行――神と仏――」の「古事記とオノコロ島伝説をめぐる」でも紹介した、淡路島の南に浮かぶ沼島(ぬしま)。沼島女郎(ぬしまじょろう)の話は、この島に伝わった話である。沼島はかつて武島(むしま)とも呼ばれた。そのため、この話の題名も本来は「武島女郎(むしまじょろう)」ともされていた。

淡路島から見た沼島

淡路島から見た沼島

沼島の港

沼島の港

沼島の港がある入り江から、西に一つ離れた浜辺がある。現在は埋め立てが進んでかつての面影は失われているというが、ここは「水の浦」と呼ばれ、お妃が流れついたところと伝えられている。現在は削られて失われているが、この水の浦と港との境界にあった大岩を「王岩(おういわ)」と呼んでいたという。この「王岩」から港側へ少し歩いたところに、お妃が濡れた衣を乾かしたという「衣掛け岩(きぬかけいわ)」がある。さらに「衣掛け岩」から少し東には、お妃が腰を掛けたという「腰掛け岩(こしかけいわ)」がある。現在、岩の両側に二つの祠(ほこら)がまつられている。

水の浦

水の浦

王岩跡(かつてはカーブミラーがある擁壁の前まで岩が突き出ていたという)

王岩跡(かつてはカーブミラーがある擁壁の前まで岩が突き出ていたという)

衣掛け岩

衣掛け岩

腰掛け岩

腰掛け岩

また、お妃は、島内の「王寺(おうでら)」と呼ばれるところに住んだとされている。現在、「王寺」と呼ぶ一帯の中には、鎌倉幕府成立期の武将である梶原景時(かじわらかげとき)の墓と伝えられる五輪塔(ごりんとう)がある。南北朝時代以降、沼島には梶原姓を名乗る水軍が拠点を置いていた。梶原景時の墓とするのもそこからきた伝承であろう。ただし、五輪塔自体は鎌倉時代中ごろ以前の古い様式で、兵庫県内では最古級である。

伝梶原景時五輪塔

伝梶原景時五輪塔

八角井戸

八角井戸

西光寺

西光寺

また、五輪塔の少し南方には、「沼島庭園」と呼ばれる庭園もある。かつては、戦国時代の戦乱の中で都を離れ、この島に流れてきた室町幕府10代将軍足利義稙(あしかがよしたね)の館にともなうものともされてきたが、近年ではそれよりやや新しい江戸時代前半のものとも見られている。庭園の下には、「八角井戸」と呼ぶ井戸もあり、漂着したお妃を手当てするための水が汲まれた井戸と伝えられている。また、この「王寺」からやや東へ行った山裾には、「王流院(おうりゅういん)」との山号を持つ西光寺(さいこうじ)があり、お妃の屋敷跡に由来するお寺と伝えている。

さて、沼島女郎の話は、南北朝時代に入る直前、元弘の変(げんこうのへん)の時期に設定された話である。元弘の変とは、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府を倒そうと画策した事件で、この時は後醍醐が敗れて隠岐国(おきのくに=現在の島根県隠岐諸島)に流罪となる。この伝説の骨組みとなる部分は、南北朝の内乱を描いた軍記物語『太平記(たいへいき)』巻第18に、「一宮御息所事(いちのみやみやすどころのこと)」としてすでに記述されている。

しかし、『太平記』に記されているからといって、必ずしも事実とは限らない。事実としては、尊良親王(たかよししんのう)が土佐国(とさのくに=現在の高知県)に流された時点で、この話のお妃に相当する女性(今出川公顕娘=いまでがわきんあきのむすめ)はすでに亡くなっていたとされており、やはりこの話自体は虚構のようである。この話は、『平家物語』の中のエピソードをもとに創作されたものと考えられている。

しかし、こうした話が生み出される背景には、沼島が当時本州と四国方面を結ぶ海上交通の要地で、風待ち、潮待ちの港として、古くから数多くの船や人々が行き交う島だったことがある。南北朝時代から戦国時代にかけては、先に触れた梶原氏のほかに、安宅(あたぎ、「あたか」とも言う)氏などの有力な水軍が沼島に拠点を置いており、淡路・紀伊・阿波の紀淡海峡周辺に勢力を広げていた。

沼島八幡神社から見た淡路島

沼島八幡神社から見た淡路島

沼島女郎(『淡路国名所図絵』)

沼島女郎(『淡路国名所図絵』)

京都を中心に活動していた『太平記』執筆者も、こうした沼島に関する知識をもとに、都と土佐を結ぶ航路上の舞台として沼島を選び、この話を作り出したのであろう。『太平記』は、琵琶法師(びわほうし)が語る『平家物語』と同様に、「太平記読み」と呼ばれる遍歴の芸能者によって全国的に語り伝えられてきた。いつの時点かは定かではないが、こうした人々の活動によって、沼島でもこの話が語り継がれるようになっていったのではないだろうか。

そして、こうした話が現地に定着していく上でも、沼島が海上交通の拠点であったことが大きな役割を果たしたのだろう。「海から、いままで見たことのないような高貴な人がやってきたときの驚きが、この伝説の根っこになっているのではないか。」島を案内してくださった神宮寺(じんぐうじ)住職の中川宜昭師はそうおっしゃっていた。海上交通の要衝であった沼島には、時折、普段は会うこともないような高貴な人がやってくることが実際にあったのではないか。そうした時に島の人々が抱いた印象の記憶が、やがてこの話を自分たちの地域の伝説として受け止めさせ、さらに魚の由来をも付け加えて語り継がせるようになっていったのだろう。

この伝説は、中央の世界で作り上げられた伝説が、地域の中でも受け入れられ、地域に合わせたアレンジを加えながら語り継がれてきた例といえる。紀行文「犬と人」で紹介した猿神退治などの忠犬物語や、紀行文「岩と樹木」で紹介した「おりゅう柳」伝説と同様である。