三田永沢寺
永沢寺

永沢寺

三田市(さんだし)北部の山中にある永沢寺(ようたくじ)。すでに「ひょうご伝説紀行――神と仏――」の「『くわばらの里』から武庫川左岸に沿って」でも紹介しているが、この寺は、南北朝時代に通幻寂霊(つうげんじゃくれい)という曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶が開いた寺である。通幻は、比叡山(ひえいざん)で出家し、能登国(のとのくに=現在の石川県北部)総持寺(そうじじ)などで修行をつんだ後、応安3(1370)年、室町幕府の重臣だった細川頼之(ほそかわよりゆき)の招きによって永沢寺を開いたとされる。弟子たちにも通幻十哲(つうげんじゅってつ)とよばれる優れた人々が出て、各地に多数の寺を開き、曹洞宗の中で通幻派と呼ばれる一派を形成することとなった。

永沢寺

こうした永沢寺に伝わっているのが、妊娠中に亡くなって葬られた母親から、墓の中で生まれたのが通幻であるとする伝説である。死んでもなお子供を守ろうとする母の愛の深さが、幽霊の薄気味悪さとともに人々の心をつかんだのであろう。この伝説は、全国各地の曹洞宗系の寺院でも布教のために語られていたことが指摘されていて、類話は全国的に存在する。その広がりが宗教と密接に結びついていたことがわかりやすい事例として、この伝説は興味深い。

曹洞宗寺院と子育て幽霊伝説
通玄寺

通玄寺

たとえば、県域でも伊丹(いたみ)や香美町(かみちょう)などの各地で伝えられている。ここでは、香美町香住区(かすみく)の通玄寺(つうげんじ)を紹介しておこう。訪れたのはちょうど秋の紅葉たけなわの時期、写真の通り境内の中央に立つ銀杏の木があざやかな黄金色に輝いていた。

このお寺に伝わる伝説も、三田永沢寺と全く同じもので、臨月で亡くなった母親の幽霊が夜な夜な飴を買いにくること、墓の中で産み落とした子供が通幻であること、が伝えられている。また、お寺のお話では、伝説に登場する飴屋さんも、現在は廃業しているものの、近くにあるという。なお、通玄寺は宗派上では臨済宗(りんざいしゅう)の寺院であるが、通幻が出生地の浦富(うらどみ)に帰る途中に再興した寺であると伝えられている。

つぎに、鳥取県岩美町浦富を訪ねてみた。浦富は、鳥取藩の重臣鵜殿(うどの)氏の陣屋があった近世以来の町場で、現在でも旧街道に沿って商家が並ぶ街村の雰囲気をよく残している。こうした浦富市街地の北はずれに、香林寺(こうりんじ)というお寺の跡がある。ここに、「土葬神碑(つげのさいひ)」、「子持地蔵」、「母子愛碑」という3つの石碑が並べられていて、通幻の生誕地であると伝えられている。

香林寺跡

香林寺跡

土葬神碑

土葬神碑

子持地蔵

子持地蔵

母子愛碑

母子愛碑

浦富の町並み

浦富の町並み

通幻の生誕地には書物によって諸説があり、曹洞宗関係者が著した書物だけで見ても、浦富説のほかに、豊後国(ぶんごのくに=現在の大分県)武蔵郷(むさしごう)の出身とする説、京都出身とする説などがある。書物の数としては京都とするものが多いようだが、出生地をめぐってこうした諸説が出てくる背景には、子育て幽霊伝説の広まりがある。語り手によっては、通幻の出生地をそれぞれの地域に引き付けて語ることもあったようだ。

産女と餅を買う女
産女(『怪物画本』、個人蔵)

産女(『怪物画本』、個人蔵)

子育て幽霊伝説とよく似た話として、「産女(うぶめ)」という妖怪の話がある。妊娠中に亡くなった女性が、赤子を抱いて幽霊として現れる、というもので、これも全国的に分布している。産女は、通りかかった人に赤子を抱かせ、抱いた人は一定の試練を乗りこえると、怪力や金品などの福を得る、という話になっているものが多い。産女の話は、12世紀成立の『今昔物語集』にその原型が見え、比較的古い話である。

また、妊娠したまま死亡した女性を葬るときには、腹を割いて胎児を取り出してから葬るべきとする慣習が全国的にあったことが指摘されている。母親の霊を、胎児に対する心残りから解き放って成仏させるために、母体と胎児を分離する必要があると考えられていたようだ。ただし、こうした慣習や考え方は、中世の末期ごろから社会に広まっていったと見られていて、産女の話よりは新しい。

そして、このような慣習や考え方の広まりに対応して、妊娠したまま死亡した女性に関する葬送儀礼も発達していったようだ。たとえば江戸時代の曹洞宗の場合、実際に腹を割いて胎児を取り出すのではなく、僧侶の呪法によって母子が分離したと信じさせる方法が採られていたという。

子育て幽霊伝説は、こうした妊娠女性の葬送に関する知識や経験をもとに、僧侶たちによって、その効験を広める説法の中で生み出されたものと考えられている。その際、古くから語り継がれてきた産女の話も、素材の一つとなったと見てよいだろう。

頭白が勧進した板碑(千葉県香取市大根)

頭白が勧進した板碑
(千葉県香取市大根)

なお、通幻と似たような子育て幽霊伝説は、別の宗派の僧侶にも見られる。たとえば、関東地方で伝えられている頭白上人(ずはくしょうにん)伝説がある。頭白は15世紀末〜16世紀初頭に実在した人物で、北関東を中心に石塔造立などの宗教活動を進めた僧侶である。彼にも、殺された母親から墓の中で生まれ、母親の幽霊が夜な夜な飴を買いにきた、との伝説があり、そのため生まれながらに頭髪が白かったという。さらに話によっては、死後大名に生まれ変わって、自らの敵である別の大名を討ったとするものもある。

頭白伝説は、天台宗や真言宗、浄土宗などの寺院と結びつけて語られていて、曹洞宗との結びつきは希薄である。このほか、時宗の国阿(こくあ)、浄土宗の学信(がくしん)、浄土真宗の大厳(だいごん)、日蓮宗の日審(にっしん)など、さまざまな宗派の僧侶にも、子育て幽霊伝説がある。マイナスイメージの言葉ではあるが、一般に「葬式仏教」とも言われるように、江戸時代以降は、僧侶が庶民の葬送儀礼にたずさわることは宗派を問わず一般化していた。そうした状況の中で、さまざまな宗派で、布教や説法のために、高僧に関する子育て幽霊伝説が語られるようになったと考えられるのである。

さらに、子育て幽霊伝説は、中国の説話との関連も指摘されている。12世紀の南宋(なんそう)のころに成立した『夷堅志(いけんし)』に、「餅(ピン)を買う女」として、よく似た話が載せられている。

ある民家の妻が妊娠中に死亡したので墓地に葬った。そのころから餅屋へ赤子をかかえて毎日餅を買いに来る女があり、餅屋の者が怪しんであとをつけると墓場のあたりで消え失せた。いよいよ怪しく思ったので、女の裾に赤い糸を縫いつけてあとをつけていくと、果たして糸は草むらの塚の上にかかっていた。死んだ女の家族が塚を掘り返すと、赤子は棺の中で生きていたという。

産女(『復襲爰ハ高砂(かたきうちここはたかさご)』、個人蔵)

産女(『復襲爰ハ高砂(かたきうちここはたかさご)』、個人蔵)

この話に出てくる「餅」とは、日本の「もち」ではなく、小麦粉を練った生地を焼いたパンに近い食べ物である。曹洞宗を含む禅宗の僧侶たちは、こうした中国のものを含むさまざまな説話集をよく読んでおり、説法の素材としてよく使っていたとされている。

このように、子育て幽霊の場合は、伝説の生成と伝播において、曹洞宗をはじめとする僧侶たちが深くかかわっていたことがわかっている。歴史の中で、僧侶たちは布教のために、日本国内はもとより、海を越えた中国の説話などをも参考にしながら、さまざまな物語をアレンジしながら語り広めていたようだ。このことは紀行文「犬と人」や「岩と樹木」でも述べている。宗教に限らず、何か大切なことを社会に伝えるためには、受け入れやすくするためのいろいろな工夫も必要であるが、これは今に始まったことではないようだ。ただし、その工夫の仕方には、時代ごとの特徴がある。