用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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青倉神社(あおくらじんじゃ)

 朝来市川上に所在する神社。社殿は、青倉山中腹に露頭した巨岩の下に建てられている。祭神は稚産霊神(わくむすびのかみ:日本神話では穀物、養蚕の神)。創建年代は不詳。社殿背後の岩壁から流下する滝の水は、眼病に効果があるとして信仰の対象となっており、参拝者が多い。

青倉山(あおくらやま)

 朝来市中央部に所在する山。標高は811m。中腹に青倉神社があり、当地の滝の水は眼病に効果があるとして信仰の対象となっている。頂上からの展望が良く登山者も少なくない。

青野ヶ原(あおのがはら)

 播州平野の中央部に広がる台地。東は加古川に面する。小野市、加東市、加西市にまたがり、東西3km、南北10km、標高は80〜90mを測る。

 台地上からは後期旧石器が出土するほか、古墳も分布しているが、酸性土壌である上、水利に恵まれなかったため開発が進まなかった。明治24(1891)年に陸軍演習地となり、太平洋戦争終結後はアメリカ軍に接収されたが、昭和32(1957)年からは自衛隊演習場となった。近年、台地周辺には播磨中央公園、工業団地などが造営され、変貌しつつある。

青野ダム(あおのだむ)

 三田市末を流れる武庫川支流の青野川に、洪水調整、灌漑(かんがい)用水の確保などを目的として建設されたダム。1988年竣工。ダム湖は千丈寺湖(せんじょうじこ)と呼ばれる。総貯水量は1,510万立方メートル。

 青野ダム建設範囲内では、ダム建設に伴って、後期旧石器時代から中世にわたる、集落、古墳、窯跡など、さまざまな種類の遺跡が発掘調査された。その一部は、現在、青野ダム記念館(三田市末字末野道東2189-1 三田市立青野ダム記念館 079-567-0590)で展示されている。

赤穂城(あこうじょう)

 赤穂市上仮屋に所在する江戸時代の城。別名を蓼城(たでのすじょう)という。国史跡。赤穂三角州上にある、典型的な平城である。室町時代から安土桃山時代にかけて、同地には加里屋城、大鷹城があった。縄張りは変形輪郭式。本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。天守台は設けられているが、天守閣は建築されなかった。縄張りは甲州流兵学者の近藤正純。

赤穂浪士(あこうろうし)

 赤穂義士(あこうぎし)とも呼ぶ。元禄15(1702)年に、吉良義央(きらよしひさ)を襲って、主君浅野長矩(あさのながのり)の仇(あだ)を討った、元赤穂藩士の47名のこと。この事件は「元禄赤穂事件」と呼ばれ、後には事件を題材とした『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする小説、芝居などに取り上げられて人気を博した。

浅野氏(あさのし)

 浅野氏は、もと常陸国笠間を領したが、1645年に赤穂へ転封され、以後1701年までの間、長直(ながなお)、長友(ながとも)、長矩(ながのり)の三代にわたり赤穂藩主をつとめた。長矩は1701年に、江戸城内で刃傷事件を起こして切腹。浅野家は断絶した。

檳榔(あじまさ)

 現代語ではビロウと呼ばれる。学名はLivistona chinensis。ヤシ科の常緑高木。ビンロウと混同されることがあるが別種である。東アジアの亜熱帯に分布し、日本列島での北限は福岡県沖ノ島である。

 古代には神聖視された植物で、現在でも、大嘗祭(だいじょうさい:天皇が即位した後初めておこなう、その年の収穫に感謝する祭祀(さいし))においては、天皇が禊(みそぎ:身を清めるための儀式)をする百子帳(ひゃくしちょう:祭祀をおこなうための小屋)の屋根材として用いられている。

安師里(あなしのさと)

 『播磨国風土記』に記された里の一つ。現在の姫路市安富町の安志付近に比定される。里名の起源は安師比売神(あなしひめのかみ:安志姫とも表記する)による。『播磨国風土記』によれば、安師比売が伊和大神の求婚を断ったことに怒った伊和大神が、林田川の源流をせき止めて流れを変えてしまったため、水量が少なくなったという。

尼子経久(あまこつねひさ)

 戦国大名(1458〜1541)。出雲国守護代であった尼子清定の子。はじめ守護代となったが、1484年、室町幕府に追われて流浪した。その後勢力を回復して、因幡(いなば:現在の鳥取県東部)以西の山陰地域を攻略し、山陽道にも進入した。このため周防(すおう:現在の山口県東部)の大内氏と対立したが、自身の配下であった毛利元就(もうりもとなり)が大内氏と結んだため、以後は大内・毛利の両氏と交戦した。

天津神(あまつかみ)

 記紀神話で、神の国である高天原(たかまがはら)にいた神。高天原から日本国土へ降ってきた神、およびその子孫の神も天津神と呼ばれる。これに対し、元から地上にいた神を国津神(くにつかみ)と呼ぶ。

アマツヒダカヒコホホデミノミコト
(あまつひだかひこほほでみのみこと)

 記紀神話に登場する神。邇邇芸命(ににぎのみこと)が、高天原から九州の高千穂の峰に降り、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と結婚して産まれた子の一人。表記は天日高日子穂穂出手見命であり、アマツヒコヒコホホデミノミコトとも読む。三人の子は、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)と呼ばれる。このうち火遠理命の別名が、アマツヒダカヒコホホデミノミコトとされている(『古事記』による)。また、火照命は別名を海幸彦(うみさちひこ)、火遠理命は別名を山幸彦(やまさちひこ)ともいう。

阿弥陀如来(あみだにょらい)

 阿弥陀仏と同じ。大乗仏教の浄土教の中心をなす仏。修行者であったとき衆生(しゅじょう)救済の願をたて、成仏して後は西方の極楽浄土で教化しているとされる。自力で成仏できない人も、念仏を唱えれば阿弥陀仏の力で救われ、極楽に往生すると説く。平安時代に信仰が高まり、浄土宗・浄土真宗の本尊となっている。

網堂(あみどう)

 高砂市伊保東(いほひがし)に所在する堂。時光寺の本尊である、阿弥陀如来像を引き揚げた網が祭られたという。

アメノヒボコノミコト(あめのひぼこのみこと)

 天日槍・天日矛とも書く。またアメノヒボコともいう。

 記紀や『播磨国風土記』などに記された伝説上の人物。新羅の王子で、妻の阿加流比売(あかるひめ)を追って日本に来たという。その後、越前、近江、丹波などを経て但馬に定着し、その地を開拓したとされている。出石神社の祭神。

天の御柱(あめのみはしら)

 国産み伝説に登場する柱。天に届くほどの柱を意味するとされる。イザナギとイザナミが婚姻する際、左右からこの柱を廻り、両者が出会った所で声をかけ合ったという。

粟鹿神社(あわがじんじゃ)

 朝来市山東町粟鹿に所在する式内社(しきないしゃ)。但馬五社の一つで、但馬国一宮ともされている。延喜式に定める名神大社(みょうじんたいしゃ)で、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)または日子坐王(ひこいますおう)を祭神とする。勅使門は市指定文化財。

淡路島(あわじしま)

 瀬戸内海東部に位置し、大阪湾と播磨灘を画する、瀬戸内海最大(日本列島第11位)の島。面積は596平方キロメートルで、兵庫県土の7.1%を占める。島北端と本州の間は明石海峡、島南端と四国の間は鳴門海峡。島の北半部では、南北にのびる山地が島を東西に分け、南部にも島内最高峰の諭鶴羽山(ゆづるはさん:標高608m)を中心とした山地があって、平野は、両地域の間を流れる三原川(みはらがわ)流域に広がっている。

 島内の行政区画は、北部の淡路市、中部の洲本市、南部の南あわじ市からなり、3市を合計した人口は、2007年現在で約153,600人となっている。

淡路名所図会(あわじめいしょずえ)

 18世紀末〜19世紀初めに制作された名所図会。当時の名所旧跡、寺社などが描かれた肉筆本である。編者は不明。淡路の名所を記した書物としては、暁鐘成(あかつきのかねなり)が編纂した『淡路国名所図絵』(1851)が知られているが、本書は内容が全く異なる。当時の景観などを知る上で重要な資料。

家島(いえしま)

 家島群島は播磨灘北西部に位置し、大小40余の島からなる。家島の地名は、『播磨国風土記』にも見える。島名は「えじま」と言いならわされていたが、昭和3(1928)年に町制が施行された際には、「いえしまちょう」と定められた。平成18(2006)年に姫路市に合併された。

家島群島(いえしまぐんとう)

 家島群島は播磨灘北西部に位置し、大小40余の島からなる。家島の地名は、『播磨国風土記』にも見える。島名は「えじま」と言いならわされていたが、昭和3(1928)年に町制が施行された際には、「いえしまちょう」と定められた。平成18(2006)年に姫路市に合併された。

家島神社(いえしまじんじゃ)

 姫路市家島町宮(みや)に所在する式内社(しきないしゃ)。祭神はオオナムチノミコト、スクナヒコナノミコトと天満大神(てんまんおおかみ)。創立年代は不詳であるが、840年には官社に列せられている。初めは天神(あまつかみ)を祭っていたが、後にオオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトが合祀(ごうし)された。天満大神(菅原道真)を祭神とするのは、天神を天満大神と誤って伝えたためという。

生島(いくしま)

 赤穂市東部の坂越湾(さこしわん)にある島。島内の樹林は、対岸にある大避神社の森として長く保護されており、スダジイやアラカシ、タブノキなどが繁茂する暖地性の自然林となっている。植生の重要性から、瀬戸内海国立公園の特別保護区および国の天然記念物に指定されている。

生野銀山(いくのぎんざん)

 生野鉱山(いくのこうざん)のこと。朝来市生野町に所在する鉱山。807年に発見されたと伝えられており、2007年で開鉱1,200年を迎えたという。室町時代末期から本格的な開発が始まり、織田信長、羽柴(のち豊臣)秀吉らの支配を経て、江戸幕府直轄の鉱山となった。明治29(1896)年からは三菱の経営となり、採掘が続けられたが、昭和48(1973)年に操業を終えた。現在、鉱山跡地は史跡に指定されており、生野鉱物館があって、旧坑道も見学可能である。

生穂賀茂神社(いくほかもじんじゃ)

 淡路市生穂(いくほ)に所在する神社。生穂に京都の上賀茂神社の荘園が置かれていたことから、当地でも賀茂神(かものかみ)が氏神として祭られるようになったとされている。後に、春日神(かすがのかみ:智神)、貴船神(きぶねのかみ:水神)、白鬚神(しらひげのかみ:土神)も祭られるようになったことから、四社明神とも呼ばれて崇敬が厚い。

池田古墳(いけだこふん)

 朝来市和田山町平野に所在する古墳。古墳時代中期前半に築造された但馬地域最大の前方後円墳で、全長136m、後円部の直径76mを測る。1重の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。埋葬施設は、古くからの土取り作業によって完全に破壊されているため不明。墳丘からは埴輪類が、周濠からは木製品が出土している。

イザナギノミコト・イザナミノミコト(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)

 記紀神話で、日本の国土を産んだとされる男女の神。イザナミノミコトが、火の神を産んだ際に火傷を負って亡くなり、イザナギノミコトがそれを追って黄泉国(よみのくに)を訪ねるという物語は著名である。黄泉国から戻ったイザナギノミコトが、禊(みそぎ)をした際に生まれたのが、アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトで、その後の記紀神話の重要な位置を占める。

出石神社(いずしじんじゃ)

 豊岡市出石町宮内に所在する式内社(しきないしゃ)で、但馬五社の一つ。但馬国の一宮(いちのみや)。アメノヒボコを祭神とし、アメノヒボコが新羅よりもたらした八種神宝(やくさのかんだから)を祭る。

出雲大社(いずもたいしゃ)

 島根県出雲市大社町に所在する式内社(しきないしゃ)。出雲国一宮。祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)。記紀神話では、大国主神が天津神に出雲国を譲るよう言われた時に、「国譲りの代償として、この地に立派な御殿を建ててほしい」と求めて建てられたのが、出雲大社の始まりであるという。縁結びの神様としても知られ、神在月(かみありづき:一般的には神無月(かんなづき)と呼ぶが出雲国のみは神在月と称する。10月のこと)に、全国から八百万の神々が集まり神議がおこなわれるという話はあまりにも有名である。

出雲国(いずものくに)

 律令下の国の一つ。現在の島根県東半部にあたる。国府・国分寺は、現在の松江市に置かれた。

市川(いちかわ)

 兵庫県の播磨地域中央部を流れて瀬戸内海に注ぐ河川。青倉山(標高811m)付近に源流をもち、延長は75.8km、流域面積は596平方キロメートル。神河町の越知川は最大の支流である。市川に沿う経路は、山陰道と山陽道を結ぶ街道(但馬道)として利用されてきた。

斎神社(いつきじんじゃ)

 養父市長野に所在する神社で、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祭神とする。養父神社との間でおこなわれる「お走り祭り」は、但馬三大祭の一つとされる。

印南野(いなみの)

 高砂市、加古川市から明石市にかけての平野および台地。加古川、明石川の流域にあたり、沖積平野は豊かな生産力を誇る。陸海ともに西国への要衝であり、記紀や『播磨国風土記』にも、この地域の経営に関する記録・伝承が多い。

揖保川(いぼがわ)

 兵庫県の西播磨地域を流れる河川。兵庫県最高峰である氷ノ山(ひょうのせん:1,510m)の南麓に発し、宍粟市(しそうし)、たつの市を経て瀬戸内海に注ぐ。全長は69.7km、流域面積は770平方キロメートル。流域の開発は古く、『播磨国風土記』にも多くの記述が見られる。

伊和大神(いわのおおかみ)

 宍粟市(しそうし)一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)とも記されている。

 播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

 風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

 なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でBランクに選定されている。

宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)

 大分県宇佐市に所在する神社。正式には宇佐神宮。八幡神社の総本宮とされる。社伝によれば725年に創建されたといい、第一位の祭神を応神天皇とし、以下、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう:仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)を祭る。八幡造(はちまんづくり)と呼ばれる建築様式の本殿は国宝。

ウツギノヒメハナバチ(うつぎのひめはなばち

 ヒメハナバチ科に属するハチ。体長は10〜13mm。学名はAndrena prostomias。年に一度、5月末〜6月中旬に現われる。地中に巣を掘り、団子状の花粉を蓄えて幼虫の食餌(しょくじ)とする。

厩戸皇子(うまやどのおうじ)

 用命天皇の皇子(574〜622)。聖徳太子は諡名(おくりな:死後に贈られる名)。おばに当たる推古天皇の摂政として、政権の整備をおこなった。冠位十二階と十七条憲法の制定(ただし十七条憲法については、『日本書紀』編纂時の創作とする説もある)、遣隋使(けんずいし)派遣などの業績は著名である。大陸文化の導入、仏教興隆に尽力し、四天王寺、法隆寺などを建立した。

延喜式(えんぎしき)

 藤原時平、忠平らにより、延喜5(905)年から編纂が始められた法令集で、全50巻。完成は927年。967年から施行され、その後の政治のよりどころとなった。

追入神社(おいれじんじゃ)

 篠山市追入に所在する神社。秋祭で奉納される三番叟(さんばそう・さんばんそう)は、江戸時代中期に伝えられたといわれる。

応神天皇(おうじんてんのう)

 『日本書紀』によれば第15代の天皇。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子で、母は神功皇后とされる。名は誉田別命(ほむたわけのみこと)。記紀によれば在位は41年で、西暦310年に111歳あるいは130歳で没したとされる。伝説的色彩の強い天皇であるが、 『宋書』の東夷伝に見える倭王讃(さん)を、応神天皇にあてる説がある。陵墓は大阪府羽曳野市(はびきのし)に所在する、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に比定されている。誉田御廟山古墳は、全国で第2位の、全長425mを測る前方後円墳で、築造は5世紀前半と考えられている。

大石良雄(おおいしよしお)

 赤穂藩の家老(1659〜1703)。内蔵助(くらのすけ)は通称。藩主浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城内で吉良義央(きらよしひさ)を負傷させた事件で切腹を命じられた後、浅野家再興を図ったが受け入れられなかった。長矩切腹の翌年、赤穂浪士46人とともに、江戸本所にあった吉良邸に討ち入り、義央を殺して主君の仇(あだ)を討った。

オオクニヌシ(おおくにぬし)

 記紀神話に登場する神。大国主命(おおくにぬしのみこと)。『日本書紀』ではオオナムチノミコトと同一神とされ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。オオクニヌシは、スサノオの子とも六世あるいは七世孫ともされ、出雲神話の祖となっている。

大避神社(おおさけじんじゃ)

 赤穂市坂越(さこし)に所在する神社。創建年代は不詳であるが、鎌倉時代には有力な神社であったとされる。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、春日大神(かすがのおおかみ)、大避大神(おおさけのおおかみ)。大避大神とは、秦氏の祖先である酒公(さけのきみ)と秦河勝(はたのかわかつ)である。元は大酒社(おおさけのやしろ)と呼ばれ、坂越湾内の生島に祭られていた。例祭は瀬戸内三大船祭りの一つに数えられ、2艘(そう)の小船に神輿を乗せて船渡御がおこなわれる。

大津八幡神社(おおつはちまんじんじゃ)

 赤穂市大津に所在する八幡神社。和気清麻呂が九州の宇佐神宮から勧請(かんじょう:神仏を分けて別の地に祭ること)したとされる。大津八幡神社の木造菩薩立像は、赤穂市指定文化財。

オオナムチノミコト(おおなむちのみこと)

 記紀や風土記に見られる神。国造り、国土経営などの神とされるほか、農業神、商業神、医療神としても信仰される。大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命・大汝命など、さまざまに表記される。『播磨国風土記』では、葦原色許乎命(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。また記紀では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神として扱われる。こうした神名の多重性は、本来、各地域で伝承された別個の神を、記紀編集などの過程で統一しようとしたため生じたものであろう。

大部荘(おおべのしょう)

 播磨国に設けられた東大寺の荘園。現在の小野市付近にあたる。12世紀中ごろに成立したが、その後国衙(こくが:律令制下において国単位で設けられた政庁)との間で所属が争われたため、放置されて荒廃した。12世紀末になって、東大寺の復興に従事することになった重源の尽力により、東大寺領として確定した。

大神神社(おおみわじんじゃ)

 奈良県桜井市にある神社。神社東方にある三輪山を神体として祭る。大和国一宮で、三輪明神とも呼ばれる。祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)。日本で最も古い神社の一つとされている。

小田井縣神社(おだいあがたじんじゃ)

 豊岡市小田井町に所在する式内社で、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神とする、但馬五社の一つ。羽柴秀吉の中国地方遠征にともない、多くの神領・神供田を没収されて衰微したが、17〜18世紀に復興した。昭和になり、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われて現在に至る。

織田信長(おだのぶなが)

 戦国時代末期、尾張の大名(1534〜82)。父織田信秀の死後、尾張を継承し、大国であった駿河の今川義元を桶狭間の戦いで敗死させた。その後三河の徳川氏と結んで美濃へ進出し、斎藤氏を滅ぼした。1568年には、足利義昭を奉じて京へ上ったが、1573年にはこれを追放して、室町幕府に終止符を打った。同年には浅井氏・朝倉氏の連合軍を破り、1575年には長篠の合戦で武田勝頼を破って、本州の中央部を押さえ、最大の勢力を誇った。

 1576年安土に築城開始。楽市楽座の実施により産業を振興したほか、城下でのキリスト教布教を認めるなど、西洋文化の導入にも意を注いだ。しかし中国地方への進出途上、家臣であった明智光秀に殺害された(本能寺の変)。

御旅所(おたびしょ)

 神社の祭りで、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所。仮宮。

追手神社(おってじんじゃ)

 篠山市大山宮に所在する神社。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。創建年代は不詳である。境内にあるモミの巨木(千年モミ)は国指定天然記念物。

鬼追い・追儺式(おにおい・ついなしき)

 鬼会(おにえ)、追儺会(ついなえ)、鬼遣(おにやらい)ともいう。追儺は本来、疫病をもたらす鬼を払う年越しの行事であったが、仏教における新年の行事である修正会(しゅしょうえ:その年の平安と豊穣を祈願する行事)と結びついて各地に広まった。現在では、鬼追いの鬼は儺(疫鬼)を払い疫病を除くものとされている。式では、鬼に仮装した人が松明、鉾、剣などを持って、さまざまな所作をおこなう。なお節分の豆まきも、追儺式が起源とされている。

オノコロ島(おのころじま)

 「自凝島」と表記する。記紀の神話では、日本で最初にできた島とされる。その内容は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が、天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天沼矛(あまのぬぼこ)で海をかき回して引き上げたとき、矛の先からしたたる潮が固まってできたというものである。空想上の島であるのか、現実の島のいずれかに擬せられていたのかは不明であるが、現在、兵庫県の淡路島、沼島をはじめ数か所をオノコロ島にあてる考えがある。

小野市(おのし)

 兵庫県中央部に所在する市。加古川中流域に位置し、1954年に市制を施行する。2007年11月現在の人口は約50,500人。江戸時代に一柳氏(ひとつやなぎし)が、小野に陣屋を移し、その城下町が建設された(小野藩)。古くから、そろばんと家庭用刃物に代表される伝統工業に特徴があり、複合地場産業都市として発展を遂げてきた。

お走りさん・お走り祭り(おはしりさん・おはしりまつり)

 養父神社で4月15・16日におこなわれる祭りで、但馬三大祭に数えられる。祭りの由来は、但馬五社の神々が養父市斎(いつき)神社の彦狭知命(ひこさしりのみこと)に頼んで豊岡市瀬戸の岩戸を切り開いてもらい、豊かな大地が生まれたので、養父大明神が代表として、彦狭知命にお礼参りするという故事による。

 祭りの朝、「ハットウ、ヨゴザルカ」のかけ声で、神輿は養父神社を出発。斎神社までの往復35kmを練り走る。重さ150kgの神輿が、軽く走っていくように見えたことから「お走り」という名が付いたとされる。もとは旧暦12月におこなわれていたが、厳寒の季節で川渡りが大変であったことから、明治10(1877)年に現在の日程になったという。