用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
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【醍醐天皇】だいごてんのう

 第60代の天皇(885〜930)。在位は897〜930年。藤原時平を左大臣に、菅原道真を右大臣に任じ、天皇親政による積極的政治の運営をして、律令政治が最後の光彩を放つ「延喜の治」を創出した。道真の失脚後は藤原氏の勢力が拡大した。

【太政官】だいじょうかん

 律令政府における行政の最高機関。八省を統括して政務全般をつかさどった。太政大臣、左大臣、右大臣、大納言で構成される公卿官(くぎょうかん)による審議を、少納言局、左右の弁官局が事務処理して、八省が実務をおこなうという体制がとられていた。

【大物】だいもつ

 大物浦は古くからの物流の結節点で、海の輸送と川・陸の輸送との変換点であった。海上を運ばれた物資はここで川船に積み替えられて都へ運ばれ、また西国を目指す人々にとっては海の玄関口でもあった。謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られている。『平家物語』にも記述がみられ、源頼朝に疑われ都落ちを決意した義経が、西国を目指して船出したのが大物浦であるという。大物浦にある大物主神社(おおものぬしじんじゃ)には、義経主従が一時身を潜めたという言い伝えが残り、境内には「義経・弁慶隠れ家跡」の碑がある。海上交通の要衝として栄えた大物の地にあるこの神社に、自分たちの航海の安全を祈願したのであろうか。大物浦を出発した義経たちは、祈りもむなしく大風に吹き戻されやがて吉野の地に落ちていく。

 今は埋め立てられ、海岸線は当時と比べると、はるか沖合いにある。埋め立てられた場所には、細長く伸びる公園があり、かつての大物浦の姿をしのぶことができる。

【平敦盛】たいらのあつもり

 平安時代の武将(1169〜1184)。平経盛(つねもり)の子。一ノ谷の戦いで、源氏の熊谷直実に討たれた。横笛の名手といわれる。若くして悲劇的な死をとげたため、謡曲や歌舞伎などの題材となり著名である。敦盛にまつわる伝承は多く、「首塚」とされるものは須磨寺境内のものが代表的。

【平清盛】たいらのきよもり

 平安時代の武将(1118〜1181)。保元の乱(1156)で後白河天皇の信頼を得、平治の乱(1159)では源義朝を討って平氏の権力を確立した。1167年には武士として初めて太政大臣に任ぜられ、娘徳子を高倉天皇の中宮とした。

 やがて後白河法皇と対立すると、1179年には法皇を鳥羽に幽閉して、院政を停止させるに至る。清盛はさらに高倉天皇を退位させて、自らの孫である3歳の安徳天皇(1178〜1185)を即位させた。これにより、清盛の完全独裁化による平氏政権が成立。平氏の知行国は全国の半分を超え、一門の公卿(くぎょう)16人、殿上人30人余。「平氏にあらずんば人にあらず」と言われる全盛時代となった。

 しかし平氏への権力集中は、旧勢力との対立や地方武士の離反を招く要因となり、1180年には、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じた源頼政の反乱が発生した。この反乱は鎮圧され、以仁王と頼政は敗死したが、以仁王の令旨(りょうじ、皇子による命令文)は全国へ飛び火し、同年夏には、源頼朝が北条氏と結んで挙兵した。平氏軍が頼朝軍の鎮圧に失敗(富士川の戦)すると、近畿でも寺社勢力を中心に反平氏の動きが強まった。このため清盛は、興福寺などを中心とした南都を焼き討ちしたほか、近江、美濃などに派兵して源氏勢力を鎮圧した。しかし反平氏勢力の蜂起はおさまらず、1181年には平氏の基盤である西国でも諸豪族が挙兵。また平氏方であった東国の豪族が頼朝によって討たれるなど、反乱が深刻化することになった。清盛はこうした危機のさ中、熱病(マラリアともいわれる)にかかり、京都で没した。

 清盛の墓は、京都、神戸など数か所にその伝承があるが、確定されていない。

【平経盛】たいらのつねもり

 平安時代末期の武将(1124〜1185)。平忠盛の子、清盛の異母弟である。保元の乱の後、安芸、常陸、伊加などの国守を経て若狭守となる。以後、追捕使や朝廷の守護の任にもあたる。源氏との戦いがおこると、一門とともに西国へ落ち、1184年の一ノ谷の戦いで、息子の経正、経俊、敦盛らを失った。壇ノ浦の戦いで入水(じゅすい)。

【平頼盛】たいらのよりもり

 平安時代の武将(1131〜1186)。平忠盛の五男。清盛の弟。通称は池殿、池大納言。平治の乱の時、生母の池禅尼が少年だった源頼朝の助命を清盛に嘆願した事により、平家滅亡後も本領を安堵(あんど)された。また、後白河法皇の信頼が厚く、法皇の処遇を巡って頼朝挙兵以前から兄・清盛とは不仲だったという。

 高倉上皇(安徳天皇の父)の『厳島御幸記』に「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ=馬上で駆けながら矢で笠を的にしたものを射ること)など仕つらせ御覧ぜられる。」と記しているので、荒田町にあった頼盛の山荘は、相当広い邸内であったろう。

【大宰府】だざいふ

 中世以降太宰府とも表記するが、歴史用語としては「大」の字を用いる。

 7世紀後半に、九州の筑前国(ちくぜんのくに)に設置された地方行政機関。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、種子島の行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

【龍野城】たつのじょう

 たつの市龍野町にある城跡。別名朝霧城。16世紀初頭、赤松村秀によって、鶏籠山山頂に築かれた山城に始まる。天正5(1577)年に、城主赤松広英が羽柴秀吉に降伏して赤松氏の支配は終わった。

 江戸時代初め、本多政朝が龍野藩主となり、鶏籠山山麓に城を移した。その後、藩主は小笠原氏、岡部氏、京極氏と変わり、1672年に脇坂氏が入って幕末まで藩主をつとめた。

【竜山石】たつやまいし

 兵庫県の播磨地方南部に産出する、流紋岩質溶結凝灰岩(りゅうもんがんしつようけつぎょうかいがん)。高砂市竜山(たかさごしたつやま、標高92.4m)付近を中心に採掘されていたため、「竜山石」と呼ばれる。古墳時代から、石棺(せっかん)用の石材として用いられている。加西市長(おさ)、高室(たかむろ)などでも近似の石材を産し、同様に利用された。

【玉丘古墳】たまおかこふん

 加西市玉丘町に所在する、古墳時代中期の前方後円墳。古墳時代中〜後期の、38基以上の古墳からなる玉丘古墳群の中核的古墳で、全長107mをはかり、周囲に馬蹄形の濠(ほり)を巡らせている。

 埋葬施設は古くに破壊されているが、後円部に長持形石棺の破片が散乱していることから、石室などを設けない石棺直葬と考えられる。刀剣、玉類などの出土が伝えられるが、今は所在不明である。周濠(しゅうごう)からは円筒埴輪のほかに、家形、鳥形、壺形(つぼがた)などの形象埴輪が出土している。

 加古川中流域最大の古墳で、畿内政権と密接な関係をもつ王墓と考えられる。

【丹波焼】たんばやき

 篠山市今田町周辺で生産された陶器。丹波立杭焼、または立杭焼とも称し、瀬戸、常滑(とこなめ)、信楽(しがらき)、備前、越前とともに日本六古窯の一つに数えられ、その起源は平安時代末にさかのぼる。

 丹波焼は、古墳時代から続く須恵器生産の上に、常滑焼など東海系陶器の影響を強く受けて成立したが、室町時代にはその影響から脱して独自性を確立した。近世に入ると施釉陶器(せゆうとうき)の生産が始まり、釉薬や化粧土に独特の技法が用いられたほか、鮮やかな色絵陶器も生産されるようになった。太平洋戦争後は、近代的な工場による陶磁器生産に圧迫されたが、その苦境を乗り越えて現在に至っている。

 中世には壺(つぼ)、甕(かめ)、すり鉢などの日用器を主に生産し、この伝統は近世にも引き継がれて徳利など庶民生活に関わる焼物を生産したほか、高級品としての茶器の生産もおこなわれるようになった。1978年「丹波立杭焼」の名称で国の伝統的工芸品指定。

【千種川】ちくさがわ

 西播磨を流れる河川。兵庫、鳥取県境の三室山に源流をもち、西播磨西部を南流して瀬戸内海に注ぐ。全長67.6km、流域面積は752平方キロメートル。上流部の宍粟市千種町付近では、古代から製鉄がおこなわれ、河口の赤穂市では近世以降製塩業が発達した。環境省が定めた名水百選に選ばれた清流である。

【中宮】ちゅうぐう

 広義には、皇后、皇太后(先代の天皇の后)、太皇太后(先々代の天皇の后)の三者の総称。内裏の中央の宮に住むことからつけられた呼び名である。狭義には、平安時代以降一人の天皇に対し複数の后が立てられたとき、最初に立てられた后(正規の皇后)以外のものを指す。歴史用語では、狭義の意味に用いられることが多い。

【長幡寺(長坂寺)・遍照寺】ちょうはんじ・へんしょうじ

 伝承にある長幡寺は聖徳太子の創建で、二十八院をもつ大寺院とされ、現在明石市魚住町にある遍照寺は、その塔頭のひとつと伝えられる。長幡寺の正確な位置と規模は不明であるが、魚住町の長坂寺遺跡からは、奈良時代の瓦などが多数出土していることから、長幡寺にあたるとする説がある。長坂寺遺跡は古代山陽道に面しており、仮称邑美(おうみ)駅家もこの付近にあったと推定されている。

【長楽寺】ちょうらくじ

 明石市大久保町江井ヶ島にある寺院。行基の開基とされる。行基の位牌(いはい)、座像や、魚住泊(うおずみのとまり)を築造中に行基が彫ったという地蔵像などを伝えている。なお江井ヶ島周辺には、行基が開基と伝える寺院が多く、長楽寺から西の二見港までの間に、定善寺(じょうぜんじ)、薬師院(ボタン寺)、観音寺(行基作という観世音菩薩像)、威徳院などがある。

【通宝山弥勒寺】つうほうざんみろくじ

 姫路市夢前町にある、天台宗の寺院。書写山円教寺の奥の院とも呼ばれ、密接な関係がある。長保2(1000)年に、性空が隠棲(いんせい)して草庵(そうあん)を結んだのが始まりとされる。その後、花山法皇(かざんほうおう)が行幸し、播磨国司に命じて諸堂を建立させたという。

 14世紀後半に、赤松義則が建立した本堂と、本尊の弥勒菩薩および両脇侍像(わきじぞう、平安時代)は、国指定重要文化財。

【天神】てんじん

 天神は、本来「天の神」を指し、雷や雨の神として信仰されていた。しかし菅原道真が大宰府で没した後、京都では落雷の災害が頻発し、また醍醐天皇の皇子が次々と亡くなったため、これを道真のたたりと考えた朝廷は、京、大宰府に天満宮を置いて怨霊(おんりょう)を鎮めようとした。これ以降、道真を天神とする信仰が広がり、道真が優れた学者であったことから、学問の神としても信仰されるようになった。

【独鈷】どっこ

 とっこ、独鈷杵(とっこしょ)ともいう。

 密教で用いられる法具、金剛杵(こんごうしょ)の一種。鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの。煩悩をうち砕き、人間本来の仏性をひきだす道具とされている。