用語解説一覧

ひょうご伝説紀行に関連する用語解説一覧です。
五十音順で検索いただけます。

【長持形石棺・家形石棺】ながもちがたせっかん・いえがたせっかん

 長持形石棺は、古墳時代中期に盛行した石棺。底石の上に側石と小口石をはめ込み、かまぼこ形の蓋(ふた)をのせる。蓋石の各辺や側石の両端に1〜2個の突起(縄かけ突起)を作り出す。加古川下流の竜山(たつやま)に産する石材で作られた例が多く、近畿地方中央部の大型古墳の埋葬施設に使用されているため、「王者の石棺」とされる。

 家形石棺は古墳時代中期に始まり、後期に普及する石棺の一種。蓋の頂上部が平坦で、そこから側面に向かって屋根状の広い斜面となる。棺身とあわせて家の形を連想させることから命名された。蓋の長辺に2個、短辺に1個の突起(縄かけ突起)を持つものが典型的である。棺身には、くり抜き式と組み合わせ式とが見られる。

 播磨地域で見られる長持形石棺・家形石棺は、いずれも竜山石(あるいは類同の高室・長などの石材)を用いたものである。

【名寸隅】なぎすみ

 万葉集で笠金村(かさのかなむら)が詠んだ浜。明石市大久保町江井ヶ島から、明石市魚住町の住吉神社付近とされている。

【西求女塚古墳】にしもとめづかこふん

 神戸市灘区都通にある、古墳時代前期の前方後方墳。海岸線に近い平地にある。全長98m、後方部幅50m、前方部端幅48mとされている(発掘調査による復元案による)。

 1986年から2001年にかけて、13次にわたって実施された発掘調査によって、その内容が明らかにされた。

 西求女塚古墳では、後方部中央に竪穴式(たてあなしき)石室が設けられており、三角縁神獣鏡7面、浮彫式獣帯鏡2面、画文帯神獣鏡2面、画像鏡1点と、剣、槍(やり)、鏃(やじり)、斧(おの)、ヤスなどの鉄製品などが出土した。また出土した土器の大部分は、山陰系の大型壺(つぼ)、鼓形器台(つつみがたきだい)などによって占められており、西求女塚古墳が山陰地方と深い関連を持つことが明らかになった。

 これらの成果から、西求女塚古墳の築造年代は、定型化された大型古墳の出現によって画される古墳時代の初頭、3世紀の中ごろに相当し、古墳としては最古の一群に属すると考えられている。古墳の成立過程や、成立期の近畿・中国地方の政治的関係などを知る上で、極めて重要な位置にある古墳である。

【若王子神社】にゃくおうじじんじゃ

 神戸市北区山田町福地にある神社。福地村の鎮守。勧請(かんじょう)は13世紀末ごろと考えられる。現在の建物は15世紀初めに再建されたもので、国の重要文化財。

 かつては神社に隣接して、大日如来を本尊とする若王山福寺があったが、寺が衰微した後は若王子神社に大日堂が付随する形となった。さらに明治の神仏分離令によって、大日堂にあった本尊が、村の菩提寺であった無動寺に引き継がれて現在に至っている。

【仁賢天皇】にんけんてんのう

 第24代の天皇。『日本書紀』によれば、在位は488〜498年。名は億計(をけ)。父の市辺押磐皇子(いちべのおしはおうじ)皇子が、雄略天皇に殺されたために、弟の弘計(おけ)とともに播磨に逃れ、雄略天皇の死後に名乗り出て弟に次いで即位したという。

【根日女】ねひめ

 根日女命(ねひめのみこと)ともいう。『播磨国風土記』などによれば、根日女は国造許麻(くにのみやつこ こま)の娘で、億計皇子(をけおうじ)、弘計皇子(おけおうじ)の二人から求婚され、承諾したものの、皇子たちが譲り合って結局めとらなかったため、やがて年老いて死んだ。それを哀れんだ皇子たちは、山部小楯(やまべのおだて)を遣わして墓を造り、玉で墓を飾ったのでその墓を玉丘と呼び、墓がある場所を玉野と呼ぶようになったと伝えている。現在加西市にある玉丘古墳が、この玉丘の墓にあたるものとされている。

 根日女が実在の人物か否かを判断する資料はないが、根日女の父が国造許麻と記されることから、大和政権と播磨の豪族の関係を象徴的に示す伝説の一つとも考えられている。

【農村歌舞伎】のうそんかぶき

 農村部で演じられる歌舞伎。土地の人々によって演じられる、素人芝居である。

 江戸時代になると農村部に歌舞伎が浸透し、職業的な劇団による歌舞伎の上演もおこなわれるようになったが、幕府は農民の遊興やこれにともなう金の消費を止めるため、遊芸、歌舞伎、浄瑠璃(じょうるり)、踊りなどを厳しく禁じ、歌舞伎関係者が村に入ることも禁止した(地芝居禁止令:1799年)。

 しかし村人自身が演じて、「神社に奉納する」という形式をとった農村歌舞伎は、容認せざるを得なかったようで、天保の改革などで厳しく取り締まられた時期はあったものの、江戸時代を通じて継続し、明治時代にも盛んであった。しかし昭和に入って戦時体制が強まると、地芝居そのものの継続ができず消滅していった。

 戦後は高度経済成長にともなって、農村そのものが変質してゆき、農村歌舞伎は失われていった。しかし近年、郷土の文化が見直されはじめて、兵庫県下でも葛畑(かずらはた)の農村歌舞伎、播州歌舞伎や、都市から郊外に移り住んだ住民なども参加する形態も見られるようになり、十指に余る農村歌舞伎、子供歌舞伎などが復活、上演されている。

 下谷上農村歌舞伎舞台は、江戸時代末に建てられたもので、代表的な農村歌舞伎舞台として国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。また、山田地区周辺には、各村に農村歌舞伎舞台が残されている。

【野島】のじま

 淡路市北西部の海岸に沿った地域。かつてこの付近には、現在よりも沖へ突出した「高く平らかなる野」があったと、江戸時代に編集された『淡路常磐草』に伝えられることから、『万葉集』などで詠まれた「野島の崎」は、この部分に相当するという考えがある。現在は浸食によって海岸線が後退してこのような地形は見られないが、伝説にいう鹿が上陸した野島海岸も、こうした場所が想定されていたかもしれない。

【野見宿禰】のみのすくね

 『日本書紀』に登場する人物。相撲の神。出雲国(いずものくに)出身で、天穂日命(あめのほひのみこと)の14世の子孫と伝えられる。垂仁(すいにん)天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、互いに蹴り合い腰を踏み折って勝った。その後、大和国当麻の地を与えられ、朝廷に仕えたという。

 『日本書紀』によると垂仁天皇の皇后の葬儀の時、殉死に替えて埴輪を案出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたとされるが、考古学的にはこうした埴輪起源伝説は誤りである。土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を大江や菅原などに改めた(菅原道真は野見宿禰の子孫ということになる)。

 『播磨国風土記』では、播磨国の立野(兵庫県たつの市)で病により死去し、その地に埋葬されたとする。